【小田嶋隆】目黒区――自由が丘のマンションに暮らした2人の女と1人の男

東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。

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(絵/ジダオ)

 駅に向かう長い下り坂を歩きながら、佐知子は、ふと、自由が丘に住み始めて、今日が一年目の記念日にあたることに気づく。といって、特別な感慨は無い。この街にも、そろそろ飽き始めている。あるいは、東京での生活そのものに飽きてきているのかもしれない。

 ただ、駅から続く坂道の景色は好きだ。登り坂でも下り坂でも、坂を歩きながら見る街の風景は、いつでも佐知子の気持ちを慰めてくれる。

 駅からの道を登る時は、見上げる坂道の先に空が広がっている。下り坂を歩く時には、視界の底に家々の屋根が連なる。そうした、ちょっとした視点の置きどころの変化が、彼女には重要だった。

 が、半年ほど前、当時付き合っていた康夫という男にこの話をした時、彼は風景が佐知子にとって重要であることを理解しなかった。

「空だとか屋根だとかの何が面白いわけ?」

 話はそれで終わった。ほかの男女のことは知らないが、彼女にとっては、会話が弾まなくなることが、別れのサインだった。たとえばの話、食事やセックスを分かち合うことができているのだとしても、話の接ぎ穂が見つからない男と同じ時間を過ごさねばならない理由が彼女にはわからない。書店に行けば、話題の見つけ方や、雑談の進め方を指南する本が並んでいる。が、そもそも、あらかじめ話題を準備してかからないと会話が運営できないような相手と、どうしてわざわざ共に歩む必要があるのだろうか。私はごめんだ。話が噛み合わなかったり、相槌のタイミングがズレているような男と付き合うくらいなら、一人で坂道を歩いている方がずっと良い。

「でもね、サッチー」

 と、いつだったか直美が言っていたことがある。

「本当に相性の良い相手っていうのは、二人して黙って向かい合っていても大丈夫な人のことだよ」

「うっそだ。そんな男いないよ」

「それは、あんたが子供だからだよ」

「じゃあ直美にはそういう人がいるわけ?」

「ひみつだよ」

「なにそれ(笑)」

 その直美ともかれこれ3ヶ月会っていない。

 上京してはじめて住んだ東陽町は、便利な街だった。家賃も比較的安かったし、地下鉄の沿線にある学校に通うのにも好都合だった。ただ、東京の東半分の町は、地形が平板で、その、変化無く続く平地の単調さが、中部地方の小さな街で生まれ育った佐知子には、どうしてもなじめなかった。

 実際、住み始めて半年もたつと、彼女は、東西線沿線の起伏を欠いた町並みに息苦しさを感じるようになった。まっすぐに続く街路から見る左右の家並みが、どこまで歩いても驚くほど似ている下町の風景は、雑木林をめぐる丘のふもとで少女時代を過ごした佐知子の目には、あまりにも茫漠とした場所に見えた。暑い夏の午後に駅からの帰り道を歩いていると、まるで自分が砂漠の太陽の下を歩く一匹の甲虫になったような気持ちに襲われた。

 大学では、友だちができなかった。

 入学直後の二週間を風疹で休んでいる間に、50人ほどの語学のクラスのメンバーは、既にいくつかの小派閥に分断されており、彼女が初登校した時には、固定化したグループの中に、入り込む余地は残っていなかった。しかも、三々五々、連れ立って昼食を食べに行く学生の中に、新顔の彼女に話しかけてくる親切なクラスメートは一人もいなかった。

 以来、佐知子は、キャンパスでは単独行動者だ。

 最初の一月ほどの間に「付き合いにくい人」「引っ込み思案」「無口」といった調子のレッテルを貼られてしまうと、そのキャラクター設定を独力で覆すことはは、ほぼ不可能になる。誰であれ、ひとたび配役が決まったら、4年間は割り当てられた役柄を演じ続けなければならない。それが、キャンパスの掟だった。

 そして、その、誰が決めたのかも知らない役回りを、4年間にわたってきれいに演じ切る忍耐力こそが、学生が大学で身に付けることになるほとんど唯一の実質的な能力だった。実際、21世紀のマンモス私大が、新卒一括採用の就職戦線に参加している企業に保障している学生の「実力」の正体は、いちはやく場の空気を読んで、自分の果たすべき役割を見つけ出す、働きアリに似た適応力そのものを意味している。

 最初の夏休みが来るまでと思って、なんとか孤独なキャンパスライフを耐え抜いた佐知子は、9月の新学期から東京での新生活の方針を変更した。大学は、卒業証書のためにだけ顔を出す場所と割り切って、アルバイトを一ヶ月のスケジュールの中心に据えることにしたのだ。

 それから、池袋にある大衆割烹の仲居を皮切りに、新宿のデパートの地下で営業するパン屋の店員、ガソリンスタンド、アンケート回収員、家庭教師、造園会社の事務員、編集プロダクションのアシスタント、結婚式場の案内係など、手当たり次第に求人票の番号に電話をかけては、短期のアルバイトを渡り歩いた。

 半年前からは、四谷のピアノバーでピアニストを兼ねた微妙な立場のホステスとして、週4日のシフトで勤務している。

 アルバイトをはじめると、すぐに恋人ができた。

「恋人とか言うなよ。男だろ男」

 と直美が言う通り、男には不自由しなかったと言った方が正確かもしれない。あるいは、東京で一人住まいをする女子大生にとって、男を寄せ付けずにいることの方がむしろ困難だったといったあたりが、最も実態に近いのだろう。

 もっとも、アルバイト先で知り合う男たちが佐知子のような夜の時間帯に働く女子大生に接近をはかる目的は、ほぼセックスに限られている。それがあらかじめわかっているだけに、交際が長続きすることは稀で、そういう出会いと別れの繰り返しに、彼女自身、少々うんざりしはじめていた。

 そんな時期に知り合ったのが直美だ。彼女とは、結婚式場に勤務していた時代に親しくなった。

 直美は、福島県から上京して同じ新宿区の大学の別の学部に通っている同い年の学生で、佐知子と同じように、大学で人間関係を構築できずにいる組の2年生だった。

 佐知子は、直美の舌鋒の鋭さを気に入っていた。いつも何かに腹を立てているところが厄介ではあったものの、彼女には、その狷介な性質を補ってあまりあるサービス精神があった。

 佐知子が東陽町のアパートを引き払って自由が丘に住むことになったのは、アルバイト先で意気投合した直美と同居することに決めて、これまでの二倍の家賃で住処を探すゲームに、二人して夢中になったことの結果だった。で、坂を登り切ったところにある目黒区八雲のマンションに引っ越したのがちょうど1年前のこの日ということになる。不動産屋風の言い方をすれば、自由が丘から徒歩15分の2DK、築20年のマンションで家賃は管理費を合わせて16万円ほどだった。

 いま、部屋に直美はいない。3ヶ月前に、荷物をまとめることさえせず、忽然と消えて、それっきりになっている。

 ピアノの仕事を増やしたおかげで、倍額の家賃はなんとか支払うことができている。が、佐知子は東京でたったひとりの友だちをなくした。その痛手は、康夫を失った喪失感よりもずっと大きい。失ってみてはじめて分かったことだが、直美は、佐知子にとって、生まれてはじめて出会った、心から気持ちの通じ合う人間だった。

 康夫は、当初、直美の弟という触れ込みで二人の住むマンションに現れた。それが、週のうちの半分をキッチンに寝袋を持ち込んで暮らす居候のような存在になり、そうこうするうちに、やがて、佐知子の恋人みたいなものになっていた。

 その奇妙な共同生活が終局を迎えたのは、3ヶ月前に、福島から出てきた直美の母親が突然マンションの玄関口に現れた時のことだった。

 康夫が直美の弟だという話は、まるっきりのウソではなかったものの、事実でもなかった。

 直美から見て、康夫は戸籍上は異母弟ということになる。が、ありていに言えば、彼は、直美が中学生の時に離婚した彼女の父親の再婚相手の連れ子で、直接の血縁関係は無い。そして、直美と康夫の間には、お互いが高校生だった時代から秘められた関係があり、その関係への懸念が、彼女の母親が直美を東京の大学に進学させた主たる理由だった。

 そして、すべてが露見したのが、ちょうど3ヶ月前の、ゴールデンウィークの一日だったわけだ。

 以来、二人とは会っていない。

 どこに消えたのかもわからない。

 佐知子は、この自由が丘のマンションを、就活が一段落する10月までに引き払うつもりでいる。

 それまでの間に、どちらか一方が戻って来たら、自分はどうするのだろう。

 駅からマンションに続く長い坂道を登りながら、佐知子は、いつも、二人が二度と戻って来ることのできない場所に行ってしまったのではないかという想像に苦しめられる。

 坂道は、誰かが歌っていたように、滑走路を思い起こさせる。あの二人が心中するかもしれないというその考えは、佐知子の恐れを反映しているようでもあり、ひそかな願望の現れのようでもある。いずれにせよ、その想像は、坂道の彼方に広がる青空を見上げる度に、彼女の脳裏を埋め尽くすのだった。

 直美からの手紙が転送されてきたのは、八雲のマンションを引き払ってから一年後のことだ。消印は、福島の海辺の町だ。

 佐知子は、まだピアノ弾きの仕事をしている。

 就活は途中で投げ出した形だ。

 黒いスーツを着て、お定まりの問答を繰り返す儀式に疲れたということもあるが、それ以上に、自分が今従事しているピアノ弾きのアルバイトと比べて、半分の稼ぎにしかならない勤め口のために、大真面目な顔で就職活動を続けることが、心底バカバカしくなったからだ。

 結局、キャンパスで友だちを作ることができなかった人間は、就活にも耐えることができない。そういうことになっている。なぜなら、キャンパスが学生に与える試練の本当の意味は、群れの一員として振る舞えるのかどうかを試す不断のふるい分けなのであって、その能力を持っていない学生は、就職した先の企業でも、どうせ群れに同調できないイワシと同じで、いずれは、はぐれることに決まっているからだ。結局、あの茫漠としてキャンパスの中で仲間を見つけることのできなかった学生は、この国の企業社会では、どうあっても有効な駒として機能することができないのだ。

 10年ちょっと前に流行った歌の中に、人は誰もが世界でたったひとつの花なのだから、競い合ったり、ほかの花と同じであろうとつとめる必要は無いのだという意味の言葉があって、小学生だった頃の佐知子は、その歌をたいそう好んでいた。

 いまとなっては、自分が一輪の花だと信じていた少女時代の自分を、うとましく感じる。というよりも、花が未来に希望を持てるのは、つぼみである期間に限られるということなのかもしれない。

 大学に入ってから知ることになった英国のある古い労働者階級のロックスターは、

「つまるところ、オレらは、壁の中のレンガのひとつに過ぎない」

 という意味の歌を歌っている。

 いまの気分には、こっちの方がフィットする。

 佐知子も直美も、壁の中の部材のひとつとしてうまくはまりこむことのできないレンガだった。

 とはいえ、はぐれたレンガ同士だからといって、必ずうまく組み合えるというものでもない。

 孤独な人間同士が、互いの孤独を癒やすことは、多くの場合、副作用を伴っている。

 ただ、孤独な人間がいまよりも増えれば、この社会はもう少し住みやすい場所になるかもしれない。壁にはまっているレンガの数と、地面に散らばっているレンガの数が同じぐらいになれば、レンガの定義だって多少は変わってくるはずで、そうすれば、私たちにだってもう少し展望が開ける、と、佐知子は考えている。無論、必ずそうなる保障は無いが。

 新しく引っ越した先は、職場のすぐ近くのワンルームだ。

 直美と康夫は、二人とも思春期に両親の離婚と再婚を経験した子供たちだった。その共通の体験ないしは傷跡が、二人を結びつけているのだろう。

 あるいは、彼らは、自分たちを結びつけている悪運から逃れるべく、佐知子との共同生活を選んだのかもしれない。

 佐知子は佐知子で、父親を早くに失っている。

 そういう欠損家庭で育った人間だから、キャンパスの人間関係に適応できなかったのだと、ここでそういう断定するつもりはない。

 その種の断言は、昨今では、ポリティカル・コレクトネス(PC・政治的正しさ)に反するということで、多少とも人目に触れる文書からは削除されることになっている。

 同じ意味のことを、ポリティカル・コレクトネスを踏み外すこと無く言い換えることもできる。

 たとえば、 「日本の社会には、欠損家庭の出身者をやんわりと排除する空気が流れている」  と言えば、ずいぶん印象が違う。  主語を「子供たち」から「日本の社会」に変えただけのことなのだが、この言い方だと、ずっと社会派っぽく響く。

 どう言ったにせよ、佐知子が壁の中のレンガにはなれない事実は変わらない。

 直美の手紙には、康夫とのことを隠していた旨を詫びる言葉の後に、大学を休学して故郷に帰っていることや、荷物は勝手に処分してくれて良いなどといったことが、とりとめもなく書かれていた。

 後半は、こう結ばれている。

《サッチーのことはいまでも大好きだよ。

でもこっちの住所は書かない。

しばらくの間は、消印からわかる以上のことは知らない方が良いと思うから。

色々と整理がついて、色々なことの形が整ったらまた必ず連絡するから。

だから、安心しな。

心中なんかしないから。

どうせそういう心配をしてたんだろ?

あたしたちが坂道から滑空して消えるとか。

サッチーはいつもそんなふうに、空が落っこちてくるみたいなことばっかり心配してるコだった。

笑えるよ。

大丈夫。あたしたちは海のすぐそばにいるよ》

 写真が一枚同封されていた。

 福島の海を背景に直美と康夫が並んで笑っている。

 そして、手紙を受け取ってから半年後の3月に、あの大きな地震がやってきた。

 彼らの住む町は、津波に洗われたはずだ。

 そう考えざるを得ない。

 佐知子は、いまだに震災犠牲者の名簿を見に行く気持ちになれない。

 自分は、これからとても長い間、手紙を待ち続けることになるのだろうと思っている。

小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。営業マンを経てテクニカルライターに。コラムニストとして30年、今でも多数の媒体に寄稿している。近著に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気~わが炎上の日々』(技術評論社)など。

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