【磯部涼/川崎】“流れ者”の街で交差する絶望と希望
日本有数の工業都市・川崎はさまざまな顔を持っている。ギラつく繁華街、多文化コミュニティ、ラップ・シーン――。俊鋭の音楽ライター・磯部涼が、その地の知られざる風景をレポートし、ひいては現代ニッポンのダークサイドとその中の光を描出するルポルタージュ。
16年2月、約1年前に川崎区の多摩川河川敷で中学1年生の上村遼太くんが殺害された事件で、殺人と傷害の罪に問われた少年の裁判員裁判が開かれた。
「ダメだ、外れた……」「おお、当たってる!」。2016年2月2日、午前9時15分。寒空の下に熱を帯びた声が響く。800人以上が凝視するのは、当選番号の書かれた看板。そして、その周りを無数のカメラが取り囲む。「ウチは全滅かぁ」「○○君が当たったって!」「さすが、持ってる男は違うねぇ」。談笑する報道関係者の横で、老人が茫然と看板を見つめる。手にした額縁の中では、可愛い顔をした少年が微笑んでいる。山下公園や横浜スタジアムに程近い、横浜地方裁判所前。この日、行われるのは、当然、愉快なイベントなどではない。約1年前に起こった、近年まれにみる凶悪な少年事件――いわゆる川崎中一殺人事件の初公判だ。
やがて、横浜地裁前の下世話な興奮は朝のワイドショーを通して全国に伝わり、以降、判決が下されるまでの1週間、すでに風化しつつあった事件は、テレビやネットで再び盛んに取り上げられることとなった。それだけではない。初公判の同日には、昨年5月に川崎区・日進町の簡易宿泊所で起こった火災事件が放火であることが判明。現代日本が抱える問題を凝縮したような、ディストピアとしての川崎区が再び注目されたわけだが、約1カ月後の現在、人々は他のゴシップに夢中だ。
しかし、それは地元も同様である。川崎駅前の仲見世通りのバーで会った不良青年に、くだんの殺人事件のことを訊くと、彼は「まだ、あれを追ってるんですか?」と一笑に付した。「犯人グループの内のひとりは、パシリに使ってたことありましたけどね。それより、この前、もっとヤバいことがあって――」。あるいは、日進町で話しかけた、生活保護を受けながら簡易宿泊所で暮らしているという老人は、近所で起こった大火災を平然と振り返る。 「このへんは、毎晩のようにサイレンが鳴るからね。ただ、あの日はいつもより長いんで様子を観に行ってみたら、あららって」。
老人は全国の飯場を転々とし、5年ほど前に川崎区にやってきたのだという。また、くだんの殺人事件の被害者も同地へと流れ着いた者のひとりである。そして、慣れない土地で彼を受け入れてくれたのが、後に加害者となる不良グループだったのだ。しかし、前述の青年をはじめ、川崎区の不良たちが口を揃えて言うのは、フィリピン系ハーフの少年をリーダーとするグループは地元で浮いていたということだ。やがて、不良ヒエラルキーの下位にいた彼らは、さらに下位である被害者を取り込もうとしたものの、思う通りにいかなかったため、殺人に至ってしまう。彼らはみな“川崎”というコミュニティにおけるはみ出し者だった。
ディストピア・川崎のパンクスvsレイシスト
左上:C.R.A.C.川崎のメンバー・N。
右上:川崎区の多文化都市・桜本で行われた「日本のまつり」の参加者たち。
左下:桜本の市立小学校で催された音楽イベント「桜本フェス」に出演したフィリピン系の少女・アリサとナタリー。
右下:川崎区日進町の簡易宿泊所に住んでいる老人。
「川崎は流れ者の街でもあるんですよ」。パンク・ファッションのAは、ビールのグラスをあおりながら言う。耳たぶに空いた大きな穴から夜の川崎が見える。「こいつは地元が静岡で、オレは愛知で、どっちも田舎の閉塞感が嫌で高円寺のライヴハウスで遊んだりしてたんですけど、結局、生きるためにまた川崎っていう“ムラ”に来ざるを得なくなって」。そう話すのは、川崎区・堀之内のスケート・ショップ〈ゴールドフィッシュ〉のコーチ・ジャケットを着込んだPだ。仕事終わりに駅近くの中華料理屋に集まってもらった彼らは、この街で繰り返される、いわゆるヘイト・デモに対抗する組織〈C.R.A.C. 川崎〉周辺のアクティヴィストである。
そして、AとPが現場仕事と安い家賃を求めて川崎区にたどり着いた際、転がり込んだのが、川崎南部で生まれ育ったNの家だ。ただし、髪をピンクに染めた彼もまた、長年、東京で暮らしていた。「川崎のヤツらって地元から出ないんですけど、オレは狭い世界にとどまっているのが嫌で」。Nは都内を転々としながら、パンク・シーンという非地域的なコミュニティの中で生きてきた。しかし、私的な事情から川崎区に帰ることになる。「最初は『またすぐ東京に戻るよ』って言ってたものの……」。次第に彼らはこの地に深くかかわっていくのだった。
「流れ着いた頃は『川崎なんてぶっ潰してやる!』みたいなことばかり言ってました」とP。「仕事を通して、この街の汚いところをいっぱい見たんで。でも、居酒屋で働いてるときに、客で来てたフィリピンの女の子たちと仲良くなったんですよ。最初はうるさいし、『また来たよ……』みたいな感じで。ただ、そのうち話すようになり、働いてるパブに遊びに行ったとき、何気なく『日本に来てどう?』って訊いたんです。そうしたら、その子が急に真面目な顔になって『夢を持って定住しようとする子もいるけど、みんな地獄を見てるよ』って。で、職場に行くと相変わらず同僚が『またフィリピン人かよ』とか言ってるわけです。そのとき、『これが差別か』とハッとして」。彼は街のダークサイドに堕ちそうになっていた自分に気づき、むしろ、その状況を変えようと考えたのだ。
一方、川崎でも始まったヘイト・デモを気にしていたNは、Pをカウンターに誘う。「パンクには“個であれ”みたいなところがある。だから、地元にコミットする気はなかったんですけど、同時にアンチ・レイシズムはパンクの教養なんで」。やがて、彼らはカウンターを行う中で、ある場所を“発見”した。Pは言う。「レイシストに抗うのは当然として、このディストピアに希望をつくらなきゃいけないと思っていたとき、〈ふれあい館〉を知って驚いたんです。『すでにあるじゃないか!』と」。
“じゃぱゆきさん”の子どもたちが川崎の子どもたちになるまで
「桜本は私の地元。みんな友達だし、すごくいい街だよ」。そう言って、ナタリーは笑った。つい先ほど、ステージで友人のアリサと一緒に、アリアナ・グランデと絢香のヒット曲を歌っていた、フィリピン人の両親を持つ16歳の彼女は、数年前、川崎区・桜本に越してきたという。「将来? 歌手になりたいな」。後ろの壁には、1月31日の、桜本を狙ったヘイト・デモに抗するカウンターの人々の写真が飾られている。ドアの向こうの音楽ホールでは、フィリピン系のハーフと、日本人の若者たちのバンド・TINKSが演奏するモンゴル800「小さな恋のうた」に合わせて、小学生がモッシュをしている。川崎市立さくら小学校で行われていた音楽イベント「桜本フェス」は、クライマックスを迎えつつあった。
桜本フェスの主催は、さまざまなルーツを持つ人々が暮らしている桜本の、コミュニティ・センター〈ふれあい館〉だ。職員である鈴木健は、今回で2回目となる同イベントが始まった背景に関して、以下のように語る。「00年から05年くらいにかけて、桜本でフィリピンの子どもたちが目につくようになって。何が起きたのかというと、90年頃にエンターテイナー(興行ビザ)でやってきた女性たちが、本国の両親や親戚に預けていた子どもを、もう10代になったからということで日本に呼び寄せたんです」。在留フィリピン人は90年を境に急増している。00年頃、桜本にやってきたのは、いわゆる“じゃぱゆきさん”の子どもたちだ。女性たちの中には貧困のシングルマザーも多く、少年少女が置かれた環境は決して良いとは言えなかった。「ましてや、子どもたちはいきなりフィリピンでの生活を断ち切られて、言葉もわからないところに放り込まれたわけですからね。そういった中で、荒れていく子も多かった。そして、彼ら彼女らに居場所をつくったのが、川崎ではヤクザだったんです」。当時、川崎では、不況によってシノギが減り、さらに、規制強化によって動きづらくなっていた暴力団が、新たな手口として、外国をルーツに持つ少年少女を取り込むケースがまま見られたという。「もちろん、ヒドいことなんですが、彼ら彼女らを受け入れる土壌が社会にはなく、その代わりをヤクザが担ったというのも事実です。また、交渉しに行ってなんとか解放してもらえた子どもたちも、数年たつと、結局は性風俗店で働き始めたり、あの苦労はなんだったんだとがっくりしたこともありました。しかし、あきらめてはいけないと、若者たちとガチで向き合うプロジェクトを立ち上げて。そして、昨年から始めたのが桜本フェスなんですね」。
イベントを観ていて、アウトローだったBAD HOPがラップを通じ、社会とかかわり始めたように、流れ者だった子どもたちを音楽がすくい上げてくれるのではないかと感じた。しかし、鈴木は「現実はそんなに甘くない」とため息をつく。「この1年で彼ら彼女らを取り巻く環境が変わったかっていうと、はっきり言って変わってませんよ。ただ、生活が苦しいと、『オレはこれだからダメなんだ』と不幸な記憶が積み重なって、身動きが取れなくなっちゃうんですね。それに対して、『でも、あの日は愉しかったよな』ってフェスのことを思い出し、『また良いことがあるかもしれない。もう少し頑張ろう』と考え直してくれたら。そういう、小さくてもいいから、拠り所となる幸せな記憶をつくっていくこと。それって、『勝てないかもしれないけれど、負けないための生き方』なんじゃないか。これは、僕の一方的な、祈りに近いような想いですけど」。
ただ、着実に変わった点もある。それは、皮肉なことだが、ヘイト・デモが起こったことによって、子どもたちに、地元に対する愛着が芽生え始めているのだという。「今の桜本の子どもたちは、親の世代がいろいろあって流れてきたケースが多いんですが、街の危機だからこそ、自分たちが住んでいるところがどういう場所なのか意識するようになっている。『オレたちの街っていろんなヤツがいるけど、それを当たり前のこととして、一緒に生きているんだ』って。桜本フェスが終わったあとも、事情があってこの街に住めなくなってしまった子が、『それでも、ここがオレの地元だ』って泣いていました」。
前述のPも、今や川崎を“地元”だと思っていると語る。「そもそも、“地元”みたいなものが嫌で田舎から出てきたわけですけど、オレたちが今やっているのって、結局、新しい故郷を自分たちの手でつくる作業なのかなって。流れ者として街に来て、洪水で溺れてる人がいたから助けて、そのまま去ってもよかったんだけど、街の人たちと一緒に『じゃあ防波堤をつくろうか』という話になって。計算したら15年はかかるぞと」。果たして、流れ者たちはどんな街をつくりあげていくのだろうか。(つづく)
(写真/細倉真弓)
磯部涼(いそべ・りょう)
1978年生まれ。音楽ライター。主にマイナー音楽や、それらと社会とのかかわりについて執筆。著書に『音楽が終わって、人生が始まる』(アスペクト)、 編著に『踊ってはいけない国、日本』(河出書房新社)、『新しい音楽とことば』(スペースシャワーネットワーク)などがある。