【小田嶋隆】アルコール依存症の男とその女、そして彼らの”練馬区”

東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。

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(絵/ジダオ)

 西武池袋線の石神井公園駅から住宅街を北に向かって10分ほど歩いたあたりに、かつて、その世界では名の知れたペットショップがあった。店内で放し飼いにされているケヅメリクガメと一緒に撮った写真を、彼はいまでも机の前の壁に貼り付けている。ペットショップとカメが、いまどうしているのかはよくわからない。あのあたりには、もう20年近く足を踏み入れていない。通過することさえ避けている。自分にはそうするだけの理由があると、山口進次郎は思っている。

 彼がそのペットショプにほど近いところにあるマンションを最も頻繁に訪れたのは、1990年前後のことだ。当時、進次郎はとある予備校の事務所のアルバイトから正社員の身分に引き上げられたばかりのトウの立った新入社員だった。

「進ちゃん?」

 電話をかけてきたのは彩乃だ。背後のノイズで、公衆電話からかけてきていることがわかる。部屋から電話をかけられないのは、例によって、何らかのトラブルが起こっているからなのだろう。

「……悪いけど、いまから来れる?」

 進次郎は黙って次の言葉を待った。返事に窮していたというよりは、伝えなければならない言葉がはっきりしすぎていて、その言葉をはっきりと口に出す決断に、時間を要したからだ。が、

「もうたくさんだ」

 と言う代わりに

「これからそっちに向かう」

 と答えて、結局、彼は、出かける支度をはじめた。いつも同じだ。こんなふうに、真夜中の電話で呼び出されるのは何度目だろう。少なめに数えても、10回以下ではないはずだ。

 彩乃は進次郎から見て、親友の妻ということになる。そうなる前のしばらくの間、彼女は進次郎のガールフレンドの一人だった。彼女が祥一のどこに惹かれたのかはわからない。あるいは、惹かれたとか心を奪われたとか、そういう浮わついた話ではなかったのかもしれない。あるタイプの女性は、沼の縁の斜面に足をとられるみたいにして、自らの運命の深みに導かれて行く。彩乃にとって、祥一はそういう抵抗しがたい深淵だったのだろう。

 祥一と彩乃が結婚してから一年ほどたった頃、進次郎は、引越祝いの名目で、二人にホルスフィールドリクガメの幼体をプレゼントしたことがある。

 ホルスフィールドリクガメは、カスピ海東岸からアフガニスタン周辺の乾燥地帯に生息している陸棲のカメで、ロシアリクガメとも呼ばれる。性質はおとなしく、飼育はそんなにむずかしくない。ミドリガメに代表される水棲のカメと違って、水場を必要としないため、部屋が臭くなることもない。散歩も要らない。エサは葉物の野菜でいい。

 値段はヒーター、サーモスタット、専用のライト(紫外線ライトとバスキングライト)、水槽、床材など、ひと通りの飼育セットをひっくるめて6万円ほどだった。

 プレゼントに生き物を選んだのは、深刻化しはじめていた祥一の飲酒癖をソフトランディングさせるためには、適度に手間のかかるペットを持ち込むことが効果的かもしれないと考えたからだった。

 祥一と彩乃は、結婚して一緒に暮らし始めるとすぐに共同生活に行き詰まった。どうしてなのかはわからない。が、とにかく、彼らは、週末ごとに進次郎を呼び出すようになり、次第に、二日、三日と滞在を求めるようになった。2人きりで居ると気詰まりだからというのが、彼らが進次郎の帰宅を阻もうとする時の言い分だった。たしかに、婚約時代から、祥一と彩乃は、進次郎を交えた3人のセットでいる時の方が自然に振る舞うことのできる、奇妙な関係のカップルだった。

 とはいえ、進次郎の仕事が忙しくなると、そうそう頻繁に彼らの家に泊まってもいられなくなる。それに、3人の共同生活は、自然なようでいて、やはり、どこか芝居じみていた。

 進次郎は、泥酔一歩手前の祥一に
「赤ん坊でもできれば少しは違うんじゃないか?」

 と言ってみたことがある。

 進次郎は、テーブルに突っ伏したまま、顔を上げずに、はっきりとした声で答えた。

「そいつはコウノトリが運んでくるのか?」

 なるほど。

 2人の間には、かなり長い間肉体的な交渉が無いということなのだろう。どちらかが拒否しているのか、あるいは祥一が酒のせいでその能力を失っているのかもしれない。別の考えを採用すれば、能力を失っていることが、彼の連続飲酒発作の引き金になっているという見方もできる。

 と、ここまでのところで、進次郎は考るのをやめた。彼らを問い詰めることもしなかった。知りたくなかったからではない。知ってしまった場合に、その事実に対処する自信がなかったからだ。

 ただ、赤ん坊の代わりに、カメでも飼うとかして、なんとか変化をつけないと、この二人はこのまま自滅してしまう、と、そう考えて、進次郎は、時々覗いていた近所のペットショップに足を運んだのだ。

「ほら」

 カメを披露する時、彼は言った。

「おまえたちの新しい家族だ」

 二人は喜んだようだった。

「名前は?」

「自分でつけろよ」

「じゃあ、進ちゃんにしようかしら?」

「かまわないよ。オレも、これからは、そうそうここに来れなくなるからな」

「どうしてさ」

「正社員になったからだよ」

「あら、おめでとう」

「ほんとか?」

「オレはいつも出遅れてるノロマだけど、ひとつ教えといてやる。最後にゴールのテープを切るのは、休まずに歩くカメだぞ」

「ははは。素晴らしくおまえらしい意見だな」

「とにかく、これからはこのカメをオレだと思って仲良く暮らしてくれ。たのむ」

 しかし、彼らがなんとか無事に暮らしていたのはほんの三ヵ月ほどで、祥一が体調不良を理由に会社を休職するようになると、カメの魔法は消えて、事態は悪化の一途を辿った。

 以来、進次郎は、近所の公園やマンションの廊下で泥酔して動けなくなっている祥一を拾い上げるために、何度となく出動していた。この日は、前回から数えて20日ぶりの出動だった。

 部屋に着くと、祥一は泥酔したまま眠っている。

 倒れているのが部屋の中だというのは、まだしも上等ななりゆきだ。とにかく、この厄介な男をベッドまで運ぶ仕事は、彩乃にはできない。オレがなんとかしなければならない。

「おい」

 声をかけても反応がない。

 うつ伏せの状態で倒れている肩をつかんで、裏返しにすると、吐瀉物がフローリングの床の上に広がっている。そんなにひどい匂いではない。ロクにものを食べていないからだろう。仰向けになった祥一の脇の下に両腕を差し入れて、そのまま後ろに引きずる。祥一のカラダは驚くほど軽い。たぶん50キロを切っている。アルコール依存症患者に太った人間はいない。体温の高い死体が無いのと同じことだ。

 ベッドまで運んで戻ってくると、彩乃は既に床の掃除をあらかた終えている。

「ごめんね」

 進次郎は直接返事をせず、壁に向かって話しかけるみたいな口調で言う。

「オレはこれで帰る。あいつは医者に連れて行った方が良い。目を覚ましたら、二度とオレに電話するなと伝えてくれ」

 進次郎はしばらく前から祥一の名前を発音することに忌避感を覚えるようになっている。で、「あいつ」と呼んだり「あんたの亭主」と呼んだり、「あの酔っぱらい」という言い方をすることで、名前を口にせずに済ませている。

「……」

 彩乃は黙っている。このことも進次郎を苛立たせる。彼がよく知っていた頃の彩乃は、黙って困惑しているような女ではなかった。どちらかといえば、困っている人間を問い詰めにかかるような、はっきりした性格の女だった。それが、いまや自分の意図さえ説明できない。

「ゲロの掃除が手際良くなったからって、それで事態が改善するわけじゃないぞ」

 進次郎は、腹を立てているのではない。むしろ責任を感じている。あいつがあんなふうになったのは、もしかしたらオレのせいなのかもしれないと、時々そんなふうに考える。それが考え違いであることはわかっている。アルコール依存症患者の周囲にいる人間は、イラついたりうんざりしたり怒ったりすることに、じきに疲れる。そして、感情を浪費することに疲労した人間は、いつしか責任を感じるようになるものなのだ。彩乃が陥っている事態はそれだ。彩乃が責任を感じる必要はないということを、進次郎は何度も伝えた。その理由も詳しく説明した。アルコホリックの家族が自責の念を抱くことは何も改善しない。むしろ事態を悪化させるだけなのだ、と。しかし、彩乃は責任の物語から外に出ることができない。進次郎自身、うっかりすると自責の念に苦しめられている。もしかして、自責は怒りや失望よりも対処することの容易な感情で、オレたちはその中に逃げこんでいるのかもしれない。

「ごめんね」

 と彩乃が何度目かの同じセリフを繰り返す。

「あやまるのはよせよ。君たちはいつもあやまってばかりいる。今何時だと尋ねれば、ごめんねと答える。いい天気だと話しかけても、許してくれと言う。オレはそういう反応にうんざりしている。あやまることと、責任を感じることと、考えこむことをやめて、とにかく今夜はこのまま眠って、明日の朝一番に病院に電話をしてみてくれ。頼む」

「……ごめんね」

「帰る」

 終電は既に走り去っている。練馬の裏道をタクシーが流している時間でもない。アタマを冷やす意味でも、家まで歩いた方が良い。そう判断して、進次郎は12月の夜道を南に向かって歩いた。

「待って」

 振り返ると、彩乃がすぐそばまで追いついてきている。

「私、あの部屋にあの人と2人きりじゃいられない」

「……」

「お願いだからせめて始発の時間まで居て」

「無理だよ。オレだってあんたらと一緒にあの部屋にいるのはごめんだ。もううんざりなんだ」

「……でも」

「悪いけど帰るよ。オレには明日があるんだ。あんたらには無いんだろうけど」

 最後の一言は余計だった。彼らの現状を考えれば残酷に過ぎた。そう思ったのは、彩乃が泣いていることに気づいたからだった。これまで、どんなにひどいことがあっても、彼女は無表情で試練に耐えていた。その、見ようによっては冷酷にも見える顔で、彼女は、祥一が引き起こす酒の上のトラブルをひとつずつやり過ごして来たのだ。

「進ちゃんがどうしても帰るんなら、私が進ちゃんの家に行く」

「バカなこと言うなよ」

 おそらく男女の間で起こる間違いのうちのおよそ半分は、愛情とは無関係ななりゆきが誘発するものだ。少なくともオレの場合はそうだ、と、進次郎は考える。オレは、惚れた女を口説いたことがない。好きな女を家に招いたこともない。いつも間違った女とたいして望んでもいない関係を築いて、自分でそのことにびっくりしている。まるで自分のゲロに驚いて目覚める酔っぱらいみたいに。

 祥一が川越街道の路上でトレーラーに轢かれて死んだという知らせがはいったのは、2週間後の、大晦日の明け方だった。彼は、真夜中の国道の車線をまたぐ位置で眠っていて、そのまま通りかかった11トントラックに轢かれたのだという。

 祥一が、彩乃と自分の間に起こったことを知っていたのかどうか、進次郎は、そのことを彩乃に尋ねることができなかった。

 告別式の日、喪主をつとめたのは祥一の父親で、彩乃は終始無言のまま、塗り固めたような無表情で親族席の一角に座っていた。

 葬儀が済んで、遺品の整理や住んでいたマンションの立ち退きがひと通り終わった時、残ったカメは、責任上、進次郎が引き取った。

 名前は、彼らが飼っていた時のまま、進次郎で通すことにした。進次郎が進次郎を飼うというのも奇妙な話だが、祥一と呼ぶのはなおのことキツいし、ほかの名前もピンと来なかったからだ。

 ギリシャリクガメの進次郎は、二年ほど彼らに飼われていたことになる。8センチだった甲長は13センチまで成長している。甲羅の色艶も良い。大切に飼われていたということだ。

 カメを引き取って二ヵ月ほどが経過した頃、彩乃から一行だけの短い手紙が届いた。

「私たちのことは忘れてほしい」
 というのがその文面だった。

 私たちというのが、彼女と祥一のことを指すのか、彼女と進次郎の間にあった出来事を意味しているのか、進次郎には判断がつかなかった。

 カメは今年の4月に死んだ。

 思いがけないほど素直に涙が出た。

 祥一が死んだ時、彩乃と自分が泣かなかったのは、自分たち自身が半ば死んでいたからなのだろう。そう考えて、進次郎は涙を拭いた。

 彩乃には、あれ以来会っていない。忘れていない以上、会うわけにはいかないからだ。

小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。営業マンを経てテクニカルライターに。コラムニストとして30年、今でも多数の媒体に寄稿している。近著に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気~わが炎上の日々』(技術評論社)など。

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