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【橋本マナミ】中国の大河ドラマ『武則天』に触発され…ついに立候補を決意す!?

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(写真/黒瀬康之)

――総製作費56億円を投じたという中国の大河ドラマ『武則天-The Empress-』。この作品のヒロイン武則天を、“国民の愛人”橋本マナミはどう見るのか……!?

 中国歴代王朝の中で最も華やかだったとされる唐の時代(西暦618~907年)。その第2代皇帝・李世民の統べる後宮に入宮した武則天は、のちに中国史上唯一の女帝として君臨する。彼女の数奇な生涯を壮大なスケールで描いた中国ドラマ『武則天-The Empress-』が、このたびDVD化される。

 日本では「則天武后」という名でも知られる武則天は、その功績をたたえられる一方で醜聞も多く、中国三大悪女のひとりに数えられてもいる。しかし本作では、この悪女イメージを刷新。主演にアジアのトップ女優、ファン・ビンビンを迎え、武則天の“純愛”に光を当て、陰謀が渦巻く宮中を、王への愛と自らの才気を武器にサバイブする“美しすぎる女帝”の物語へ昇華させている。

 そんなドラマ『武則天』を、下積み時代を経て「国民の愛人」として大ブレイク、放送中のNHK大河ドラマ『真田丸』では細川ガラシャ役を務めるなど、武則天と同じく女性のサクセスストーリーを体現している橋本マナミさんはどう見るのか?

「まず、武則天役のファン・ビンビンさんをはじめ出てくる女性たちがとにかくきれいでセクシーで、衣装もとことん豪華なので、それを眺めているだけでも楽しいですね」

 本作では、そんな美女たちが皇帝の寵愛を得ようと策略をめぐらす姿も生々しく描かれている。橋本さんも、おじさまキラーなイメージがあるが……。

「私はこう見えて、自分の実力を評価されたいし、権力のある男性に媚びて仕事を取る行為は大嫌いなんですよ!(笑) 武則天は李世民の寵愛を一身に受けるわけですが、彼女に打算はありませんし、むしろそれは彼女の才能を高く買われた結果なんですよね。だから、そんな彼女を応援したくなりました」

 ドラマでは、武則天を引きずり下ろすべく、宮中での裏切りや騙し合いもえげつなさを増していくが、芸能界でもそうした女同士の足の引っ張り合いは珍しくないという。

「ある事務所に占いが得意な女の子がいたんですけど、その子はほかの女性タレントの手相を見ながら『恋してるでしょ?』みたいなノリで彼氏の有無や恋愛の悩みを聞き出して、それを全部事務所の偉い人に密告していたんですよ。その事務所は恋愛禁止だったので……」

 まさにドラマの中でも、「唐の世は3代で滅び、女帝武氏が取って代わる」という予言が流布し、武則天が窮地に立たされる場面がある。芸能界にしろ宮中にしろ、周りがライバル=敵だらけという状況下では、何が致命傷になるかわからないのだ。

「だから、私は同じ業界にいる人には気を許さないようにしてるんですよね。おかげであまり友達ができないんですけど(笑)。このドラマでも、武則天の親友の女の子が、李世民との仲を深める武則天に嫉妬して反目するようになってしまうんです。根は悪い子じゃないんですけど、異性や利害関係が絡むと、ねえ」

 ところで、武則天は国のトップとして政治の世界でも辣腕を振るったが、橋本さんにも日本のトップに立ちたい、なんて野望は……?

「あはは(笑)。まあ、いまの世の中に対しての不満は当然ありますよ。実は最近、時事問題についてコメントを求められることが増えているんですけど、政治の問題ってたいてい過去からつながってるじゃないですか。だからいま、家庭教師をつけて政治史を教わっている最中なんです」

 ならば、ゆくゆくはタレント候補として出馬する可能性も?

「誰も私に投票なんてしてくれないですよ! だって、『国民の愛人』ですよ?(笑) でも、もし私が政治家を目指すとしたら、それこそ武則天のような覚悟としたたかさが必要でしょうね。そういう意味では、国を治める人間の心構えみたいなものも、このドラマから学べるかもしれませんね!」

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『武則天-The Empress-』
中国史上唯一の女帝としてその名を轟かす武則天。一介の側室だった彼女は、いかにして時の皇帝・李世民に見初められ、最高権力者の座を手に入れたのか? 中国本国では2015年に放送され人気を博した愛と野望渦巻く歴史エンタテインメントが、日本でもついにDVD化。16年9月2日よりDVDセットが各1万6000円にて順次発売(同時レンタルも開始)。発売・販売/NBCユニバーサル・エンターテイメント

(写真上)10代から80代までの武則天を演じきったファン・ビンビン。1981年生まれで、ハリウッド作品にも出演している。(写真下)チャン・フォンイー演じる唐王朝第2代皇帝・李世民と武則天。彼の寵愛を受け、武則天は徐々に王宮内での地位を獲得していく。

はしもと・まなみ
1984年8月8日、山形県生まれ。身長168センチ。97年デビュー。14年の写真集『MANAMI BY KISHIN』(小学館)で「愛人にしたい女」「平成の団地妻」としてブレイク、以降バラエティ番組、ドラマ、映画、CMと幅広く活躍。

【哲学者・萱野稔人】Kindle版、Kindle Unlimited配信記念インタビュー&“活字と電子書籍の過剰供給”の哲学的解釈

 Amazon.comによるKindle Unlimitedのサービスが開始された。哲学者・萱野稔人氏は、「月刊サイゾー」の連載において、『複製技術時代の芸術』(ヴァルター・ベンヤミン/晶文社)を引用しながら、複製できる芸術の登場により、書物などの作品からアウラが消滅する事を論じている。

 ここでは同氏の著作『哲学はなぜ役に立つのか?』のKindle版、そしてKindle Unlimited配信を記念して、特別インタビューと同テーマを扱った連載を再録したい。

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『哲学はなぜ役に立つのか?』好評発売中

――書名は『哲学はなぜ役に立つのか』というタイトルですが、そもそも哲学って具体的に何かの役に立つことはあるのでしょうか。

萱野 多くの人は哲学のことを、プラトンやアリストテレスに始まって、デカルトやヘーゲル、カントなどの哲学者がどんな思想を持っていたのかを学ぶもの、というイメージを持っています。それだと哲学が役に立つという感覚は確かにしないですよね。ただ、当然ですが、哲学はそんな哲学史の知識にとどまるものではありません。哲学はあらゆる分野に広く実践できるものなんですよ。

――普通に暮らしていて哲学を意識することはほとんどないですが……。

萱野 どんな問題でもいいのですが、例えばクオータ制の導入について賛否の分かれる議論がされていましたよね。これも哲学的な問いといえます。

――クオータ制というのは、女性の社会進出を促すためにリーダーや管理職などに女性が占める比率を決めて優先的に割り当てる制度ですね。政府は2020年までに社会のあらゆる分野で、指導的地位に女性が占める割合を30パーセント程度にするという目標を掲げています。

萱野 これは、限られている指導的地位や管理職のポストをどのように割り当てれば、平等で社会的な正義にかなうものになるのかという問題です。現在は社会進出している男性の数が女性に比べて圧倒的に多いので、能力だけを基準にすれば必然的に男性の占める割合は高くなります。それならば男女平等の実現のためにも優先的に女性を割り当てるべきだという主張があり、一方でクオータ制によって本来なら管理職になる能力のある男性がポストから外されるのであれば男性への逆差別になるという主張もあります。

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【宗教学者・島薗進×社会学者・橋爪大三郎 対談本出版記念!】宗教的、社会学的『人類の衝突』連載特別再録

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『人類の衝突』8月17日発売。予約受け付け中。

 なぜ、宗教と文明は対立するのだろうか? そして、日本は何を考え、どう立ち振る舞うべきなのか――。

 日本を代表する宗教学者と社会学者の泰斗による対談『人類の衝突』が「月刊サイゾー」に掲載されたのは2015年3月号。当時、イスラム国による日本人拘束事件は、最悪の結末を迎えた。あれから1年半以上経った現在、宗教の対立に、解決の道筋は見えていない――。

 ここでは、「月刊サイゾー」に掲載された連載を大幅に加筆し、注釈を加えた書籍化を記念し、第一回を特別に無料公開としてお届けしたい。


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(写真/江森康之)

 人間の文明は、なぜ互いに衝突し合うのか――。社会学、そして宗教学の重鎮2人による「現代日本と宗教」というテーマを予定して始まったこの対談、”宗教”という概念の性質上、話題は”人間と文明””国家とイデオロギー””文化と民族”といった幅広い範囲に及んだ。

 日本における宗教学の第一人者・島薗進と、社会学の第一人者・橋爪大三郎。この日が事実上の初顔合わせだったが、同じ1948年生まれの2人は、宗教学と社会学という別の学問領域から、実は同じところを見ていたようだ。「日本と世界の文明はどのように構成され、21世紀の今、どこに向かおうとしているか」というテーマを、縦横無尽に語り合う。文明の構造を知らなければ、なぜ文明が相争うのかも説明できない。イスラム国によるテロや、日中韓の関係悪化を考えるためにも、その考察は欠かせないだろう。数回に分けてお送りするこの対談は、両氏が共同で作り上げた、21世紀を生き延びるための「文明論の概略」である。

島薗 橋爪さんは非常に大きい世界史的規模で宗教について考えていらっしゃるので、今日はそういったまなざしで日本の世相を見るとどう見えるのかな、ということを伺いたいと思っています。

 社会学が全体的にデータの取れる領域をこぢんまりと実証する方向に向かいがちな中で、橋爪さんのなさっている仕事は、社会学が本来持っているべき視野を回復するという意味で、私はとても共鳴しているんです。

橋爪 それは恐れ入ります。

 例えば、社会学者のマックス・ウェーバーはひと昔前、日本で評価が高く、ウェーバリアンといわれる研究者が大勢いましたが、今では時代遅れということになっています。

 当時、ウェーバリアンたちがなんと言っていたかというと、「日本は、ウェーバーの掲げる近代化のものさしに従って、しっかり近代化しなければいけない」といった主張だった。そうこうするうち「日本は先進国に成り上がって、高度資本主義やポストモダンの段階になったのだから、日本は実ははるかに進んでいるのだ」と、80年代から言われだした。

 ただ、ウェーバーは別に近代化論をやろうとしたのではない。ウェーバーが優れていたのは、「世界はまだらだ」と言ったことだと私は思います。キリスト教文明は絶対でも普遍でもなく、単なる「ワンオブゼム」にすぎない。世界にはユダヤ教も、イスラムもヒンドゥーも、儒教文明もある。そういう人類社会の多様性を、ウェーバーは一番描いてみたかったんだと思います。

島薗 確かに日本の社会学ではウェーバーの近代化論の影響はとても大きかったと思いますが、宗教倫理の図式を整理し直すという話はウェーバー専門家の中で終わってしまって、世界の文化の違いが深刻な問題として残り続けるという現在の問題意識については、学問研究が十分に進んだとは言い難いような気がします。

 それは世界においてもそうで、やはり異文明の研究というのは文献学的な土台が必要になることから、なかなか取り組めない。西洋の学者は、インドや中国・東アジアの文明については、少なくとも古典文献から読むという姿勢はなかなか身に付いていないようです。

 そういった中で、日本人は西洋人とは違うという自意識を持ってきていますから、それを踏まえれば、日本的な観点から世界文明を比較し、それが私たちの生活にどう影響しているかを考察するという視座が出てきてしかるべきだと思います。そのあたりを今日はじっくりお話ししたいですね。

橋爪 そうですね。

島薗 そう考えたときに、ひとつの大きな基盤となる考え方は、冷戦後の社会は世界がいくつかにブロック化するということです。

 これは、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』(邦訳98年/集英社)などでも似たような議論がなされましたが、かつて冷戦時代は東対西という分裂があった。つまり「西=自由主義陣営で個人の自由を重んじる世界」と「東=共産主義陣営で集団的な秩序を重んじる世界」という枠組みがあったわけですが、冷戦終結後はそれに代わって、各文明圏が各々の宗教的伝統にのっとって社会を構成するようになっていった。

 一般的にはそのように理解されているし、私自身もそれに近い考えを持っていますが、それでは、日本は儒教と大乗仏教の組み合わせにより構成される東アジア文明圏に属するのかというと、ハンチントンは中国と韓国は儒教文明だが、日本は独立した別の文明であると提唱していた。あの議論には政治主義的な要素もうかがえるので怪しい箇所もありますが、確かにうなずける部分はあると私も見ているのですが、いかがでしょうか。

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「KILLER」Tシャツで法廷へ臨んだ“スクール・シューター” 現場で自殺しなかった銃乱射事件犯人

――犯罪大国アメリカにおいて、罪の内実を詳らかにする「トゥルー・クライム(実録犯罪物)」は人気コンテンツのひとつ。犯罪者の顔も声もばんばんメディアに登場し、裁判の一部始終すら報道され、人々はそれらをどう思ったか、井戸端会議で口端に上らせる。いったい何がそこまで関心を集めているのか? アメリカ在住のTVディレクターが、凄惨すぎる事件からおマヌケ事件まで、アメリカの茶の間を賑わせたトゥルー・クライムの中身から、彼の国のもうひとつの顔を案内する。

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細いペンではっきりと「KILLER」と書かれたTシャツを着ている。

 2012年2月27日、オハイオ州シャードン高校のカフェテリアに10発の銃声が鳴り響いた。パニックと化した現場で逃げ惑う生徒達は、銃声が聴こえた方角を振り返り、目を疑った。そこには、内気でシャイなトーマス・T・J・レーン(当時17歳)が立っていたからだ。

「何であいつが……。すごくおとなしい奴だったんだ」

「彼がこんなことするなんて信じられない。人前で話すのも苦手な、シャイな子だったのに」

 周囲の人間が口々に証言するトーマスの人物像は“影の薄い存在”であった。しかし彼はこの日から、「悪名高きスクール・シューター」として全米に名を馳せることとなる。

誰も彼のことを気にかけなかった

 幼い頃から両親による家庭内暴力を目の当たりにしていたトーマスは、その後祖父母に引き取られて育った。中学校時代は友人たちとスケートボードやバスケットボールも楽しんだが、高校に進学する頃には周囲との交流を絶ち始める。やがて1人で行動するようになった彼を、周囲は「何を考えているかわからない奴」と影口を叩くようになり、唯一の理解者であったガールフレンドさえ、彼のもとを去っていった。

「いつも寂しそうな目をしていたけど、特に変わった様子はなかった」。毎朝スクールバスで顔を合わせる友人たちは、彼を気に掛けることはなかった。そうして自ら孤立の道を選んだトーマスは、別れたガールフレンドに新しい恋人ができると、さらに少しずつ変化を遂げてゆく。それももちろん、決して良くはない方向に、だ。学校での彼とは別人のような、威圧的な姿を自撮りし、次々とフェイスブックに投稿するトーマス。その中には、体を鍛えあげ、上半身を誇らしげに見せつける姿もあった。詩のような文章を投稿し、最後には「みんな死ね」と綴った。

 だが、周囲の人間は彼の存在と同じように、そうした発言を気に留める事をしなかった。

元ガールフレンドの恋人も被害者の中に

 犯行の日、彼はいつも通りスクールバスに乗って登校した。学校に着くと、同級生に会釈だけをして、何もしゃべらずにカフェテリアに向かう。それは、いつもの内気なトーマスの姿だった。

 だがその直後、トーマスは所持していた拳銃を握りしめ、朝食を取っていたグループのテーブルに歩み寄り、10発を発砲。3人を射殺、3人にけが負わせたのだ。死亡した被害者の中には、元ガールフレンドの新しい恋人であった、男子生徒が含まれていた。

 逮捕されたトーマスは、殺人・殺人未遂などの罪で起訴されたが、弁護側は、精神疾患の可能性を盾に、無罪を主張。しかし、逮捕から1年後、トーマスは突然罪を認め始めた。

悪名高きスクール・シューター KILLERと名乗った少年

 社会的孤立から犯行に走る、スクール・シューティングが頻発するアメリカでは、その犯行後、犯人の多くは自殺を遂げている。1999年に発生したコロンバイン高校銃乱射事件で、13人を射殺し24人に重軽傷を負わせたエリック・ハリスとディラン・クレボルドも校内で自殺を遂げているし、2007年のバージニア工科大学で32人を射殺したチョ・スンヒも、2012年に母親を殺害し、サンディフック小学校に押し入って26人を射殺したアダム・ランザも、最後には自ら命を絶っている。

 そうした前例がありながら、今回、死者数が3人に留まり、すでに罪を認めているトーマスが歴史に残る「悪名高きスクール・シューター」と呼ばれるようになったのは、逮捕後の彼の行動にあった。

2013年3月19日、裁判所で量刑のための審問が行われたこの日、トーマスは水色のシャツを着て出廷。被告席に着席した彼は、おもむろにボタンを一つずつ外し始めた。そして、シャツの下に着ていた白いTシャツを露わにし、マジックで書かれた「KILLER」の文字を誇示したのだ。さらに、被害者の遺影を持った遺族が発言を始めると、トーマスは微笑みながら、遺族に向かって中指を立てながら呟いた。

「この手で引き金を引き、あんたらの息子を殺したんだ。これからは、その感触を思い出してマスターベーションをするよ」

裁判官は、仮釈放なしの終身刑を言い渡した。

ネットのヒーローとなる犯罪者

「KILLER」と書かれたTシャツを着て、遺族に向かって中指を立てるセンセーショナルな映像は、テレビ局にとって視聴率を上げる為の格好のネタとなった。スタジオではキャスター達が、彼の犯した愚行への批判を続けた。

 だが繰り返しテレビで流されるトーマスの姿に批難が集中する一方で、一部の人間たちは彼を英雄視し始める。ネット上には、彼の画像を集めたファンサイトが開設され、ハートマークでコラージュされた彼の写真が投稿された。さらに、彼の名前を使ったハッシュタグで意見交換をし、中にはまるでロックバンドのTシャツを着るかのように、「KILLER」と書かれたTシャツを着る少女まで現れた。

 獄中で一生を過ごすことになったトーマスは、そうした自分を取り巻く状況を知ってか知らずか、判決から2年後、収監されている刑務所から脱走を試み、失敗に終わっている。彼は事件から4年が経った現在も、被害者への謝罪、そして動機を語っていないままだ。

井川智太(いかわ・ともた)
1980年、東京生まれ。印刷会社勤務を経て、テレビ制作会社に転職。2011年よりニューヨークに移住し日系テレビ局でディレクターとして勤務。その傍らライターとしてアメリカの犯罪やインディペンデント・カルチャーを中心に多数執筆中。

「好きなママタレ」2位の小倉優子が、夫の不倫でも離婚に踏み切れない理由

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『小倉優子の毎日おいしい♡おうちごはん』(扶桑社)

 第2子妊娠中のタレント小倉優子の夫で美容師の菊池勲氏が、小倉と同じ事務所に所属するアイドルの馬越幸子が不倫していたことを8月3日発売の週刊文春が報じた。

 グラドルだった小倉はこりん星人というキャラ設定でブレイク。11年に年収8000万円とも言われるヘアメイクアーティストの菊池氏と「玉の輿」婚。12年に第一子を出産すると、ママタレに転身し、出版したレシピ本2冊が合計25万部のベストセラーになり、14年に3冊目も上梓した。ブログでは日々の生活についてつづり、家事もしっかりこなすなど、今やカリスマ主婦として同世代のママたちから高い支持を得ている。

「第2子が妊娠6カ月という順風満帆のさなかに知らされた最悪の裏切り行為に、小倉は夫のケータイを投げつけ激怒したといいます。不倫相手の馬渕のほうは、所属事務所に『ご迷惑をおかけしてすいませんでした』と答えたそうですが、すでにブログやツイッターは消滅しており、解雇されるのは間違いなさそう。小倉は菊池氏との離婚も考えているようですが、4歳の長男やお腹の赤ちゃんのことを考えるとなかなか決断できないようです」

 子どものこともさることながら、小倉が離婚に踏み切れないのは、シングルマザーになった時の芸能界でのポジションだ。

「小倉は夫から事の顛末を聞いて真っ先に、ママタレのイメージが壊れることを非難したそうです。週刊文春が昨年発表した『好きなママタレ』ランキングでも北斗晶に次ぐ堂々の2位に入っている。トップ10のうち、シングルマザーは9位のスザンヌのみ。10位の松田聖子は微妙ですが、それ以外の顔ぶれはやはり夫婦の円満ぶりが話題となっている面々ばかり。離婚となれば小倉に『不幸な女』イメージがつくことは確実。彼女は計算が働くタイプですから、離婚は踏みとどまるのではないでしょうか」

 とはいえ、後輩の女に夫を寝取られた小倉としては、“今後どの面下げてテレビに出ればいいの”という気持ちだろう。

センスプが報じた新たなゲス不倫の裏で…小倉優子が「夫の不倫」と同じくらいなかったことにしたい黒歴史

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『小倉優子のはじめてママdays』(主婦の友社)

 8月3日発売の「週刊文春」に夫であるカリスマ美容師の菊池勲氏が、自分と同じ事務所のアイドル馬越幸子との不倫が報じられ、離婚危機となっている小倉優子。現在はママタレとしてブレイク中なだけに、烈火のごとく怒り狂ったという。

「小倉は自分のマネージャーに、『私のママタレキャリアがダメになるから、夫がすべて悪いことにして懲らしめてほしい』と指示。さらには、『離婚したらママタレで生きていけないのはわかってるでしょ!』とまくしたてていたそうです」(芸能記者)

 小倉はこれまで、グラビアアイドル→こりん星キャラ→ママタレと3度のブレイクを果たしている。その間も焼肉店経営や株取引、さらにはゴルフを始めるなど、芸能界でのポジションをつかむためにしたたかに計算を働かせていた。

 実はそんな彼女には、夫の不倫と同じくらいなかったことにしたい黒歴史時代が存在したことはあまり知られていない。それが「早口」と「ございます」キャラだ。アイドル誌の編集者が言う。

「売れる前に出演した『THE 夜もヒッパレ』(日本テレビ系)では、今でいう鈴木奈々のような超ハイテンションでキャーキャーと早口で喋っていました。さらに、当時の雑誌のインタビューでは明るいキャラがバラエティ向きだと言われ、『やや、そんなことないでございますよ。今年はドラマにも出たいですもん。優子、涙を流すのが得意でございますから』と、なぜかほぼ必ず語尾に『ございます』をつけています。この迷走の原因は、おそらくまだ芸風を模索中だったのでしょう」

 誰よりも「キャラ」や「武器」に苦心してきた小倉だからこそ、せっかく掴んだ「ママタレ」「カリスマ主婦」の座の重みを知っているはず。そのことをひっくるめて、夫の不倫を許すのか、否か……。

【小田嶋隆】アルコール依存症の男とその女、そして彼らの”練馬区”

東京都23区――。この言葉を聞いた時、ある人はただの日常を、またある人は一種の羨望を感じるかもしれない。北区赤羽出身者はどうだろう? 稀代のコラムニストが送る、お後がよろしくない(かもしれない)、23区の小噺。

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(絵/ジダオ)

 西武池袋線の石神井公園駅から住宅街を北に向かって10分ほど歩いたあたりに、かつて、その世界では名の知れたペットショップがあった。店内で放し飼いにされているケヅメリクガメと一緒に撮った写真を、彼はいまでも机の前の壁に貼り付けている。ペットショップとカメが、いまどうしているのかはよくわからない。あのあたりには、もう20年近く足を踏み入れていない。通過することさえ避けている。自分にはそうするだけの理由があると、山口進次郎は思っている。

 彼がそのペットショプにほど近いところにあるマンションを最も頻繁に訪れたのは、1990年前後のことだ。当時、進次郎はとある予備校の事務所のアルバイトから正社員の身分に引き上げられたばかりのトウの立った新入社員だった。

「進ちゃん?」

 電話をかけてきたのは彩乃だ。背後のノイズで、公衆電話からかけてきていることがわかる。部屋から電話をかけられないのは、例によって、何らかのトラブルが起こっているからなのだろう。

「……悪いけど、いまから来れる?」

 進次郎は黙って次の言葉を待った。返事に窮していたというよりは、伝えなければならない言葉がはっきりしすぎていて、その言葉をはっきりと口に出す決断に、時間を要したからだ。が、

「もうたくさんだ」

 と言う代わりに

「これからそっちに向かう」

 と答えて、結局、彼は、出かける支度をはじめた。いつも同じだ。こんなふうに、真夜中の電話で呼び出されるのは何度目だろう。少なめに数えても、10回以下ではないはずだ。

 彩乃は進次郎から見て、親友の妻ということになる。そうなる前のしばらくの間、彼女は進次郎のガールフレンドの一人だった。彼女が祥一のどこに惹かれたのかはわからない。あるいは、惹かれたとか心を奪われたとか、そういう浮わついた話ではなかったのかもしれない。あるタイプの女性は、沼の縁の斜面に足をとられるみたいにして、自らの運命の深みに導かれて行く。彩乃にとって、祥一はそういう抵抗しがたい深淵だったのだろう。

 祥一と彩乃が結婚してから一年ほどたった頃、進次郎は、引越祝いの名目で、二人にホルスフィールドリクガメの幼体をプレゼントしたことがある。

 ホルスフィールドリクガメは、カスピ海東岸からアフガニスタン周辺の乾燥地帯に生息している陸棲のカメで、ロシアリクガメとも呼ばれる。性質はおとなしく、飼育はそんなにむずかしくない。ミドリガメに代表される水棲のカメと違って、水場を必要としないため、部屋が臭くなることもない。散歩も要らない。エサは葉物の野菜でいい。

 値段はヒーター、サーモスタット、専用のライト(紫外線ライトとバスキングライト)、水槽、床材など、ひと通りの飼育セットをひっくるめて6万円ほどだった。

 プレゼントに生き物を選んだのは、深刻化しはじめていた祥一の飲酒癖をソフトランディングさせるためには、適度に手間のかかるペットを持ち込むことが効果的かもしれないと考えたからだった。

 祥一と彩乃は、結婚して一緒に暮らし始めるとすぐに共同生活に行き詰まった。どうしてなのかはわからない。が、とにかく、彼らは、週末ごとに進次郎を呼び出すようになり、次第に、二日、三日と滞在を求めるようになった。2人きりで居ると気詰まりだからというのが、彼らが進次郎の帰宅を阻もうとする時の言い分だった。たしかに、婚約時代から、祥一と彩乃は、進次郎を交えた3人のセットでいる時の方が自然に振る舞うことのできる、奇妙な関係のカップルだった。

 とはいえ、進次郎の仕事が忙しくなると、そうそう頻繁に彼らの家に泊まってもいられなくなる。それに、3人の共同生活は、自然なようでいて、やはり、どこか芝居じみていた。

 進次郎は、泥酔一歩手前の祥一に
「赤ん坊でもできれば少しは違うんじゃないか?」

 と言ってみたことがある。

 進次郎は、テーブルに突っ伏したまま、顔を上げずに、はっきりとした声で答えた。

「そいつはコウノトリが運んでくるのか?」

 なるほど。

 2人の間には、かなり長い間肉体的な交渉が無いということなのだろう。どちらかが拒否しているのか、あるいは祥一が酒のせいでその能力を失っているのかもしれない。別の考えを採用すれば、能力を失っていることが、彼の連続飲酒発作の引き金になっているという見方もできる。

 と、ここまでのところで、進次郎は考るのをやめた。彼らを問い詰めることもしなかった。知りたくなかったからではない。知ってしまった場合に、その事実に対処する自信がなかったからだ。

 ただ、赤ん坊の代わりに、カメでも飼うとかして、なんとか変化をつけないと、この二人はこのまま自滅してしまう、と、そう考えて、進次郎は、時々覗いていた近所のペットショップに足を運んだのだ。

「ほら」

 カメを披露する時、彼は言った。

「おまえたちの新しい家族だ」

 二人は喜んだようだった。

「名前は?」

「自分でつけろよ」

「じゃあ、進ちゃんにしようかしら?」

「かまわないよ。オレも、これからは、そうそうここに来れなくなるからな」

「どうしてさ」

「正社員になったからだよ」

「あら、おめでとう」

「ほんとか?」

「オレはいつも出遅れてるノロマだけど、ひとつ教えといてやる。最後にゴールのテープを切るのは、休まずに歩くカメだぞ」

「ははは。素晴らしくおまえらしい意見だな」

「とにかく、これからはこのカメをオレだと思って仲良く暮らしてくれ。たのむ」

 しかし、彼らがなんとか無事に暮らしていたのはほんの三ヵ月ほどで、祥一が体調不良を理由に会社を休職するようになると、カメの魔法は消えて、事態は悪化の一途を辿った。

 以来、進次郎は、近所の公園やマンションの廊下で泥酔して動けなくなっている祥一を拾い上げるために、何度となく出動していた。この日は、前回から数えて20日ぶりの出動だった。

 部屋に着くと、祥一は泥酔したまま眠っている。

 倒れているのが部屋の中だというのは、まだしも上等ななりゆきだ。とにかく、この厄介な男をベッドまで運ぶ仕事は、彩乃にはできない。オレがなんとかしなければならない。

「おい」

 声をかけても反応がない。

 うつ伏せの状態で倒れている肩をつかんで、裏返しにすると、吐瀉物がフローリングの床の上に広がっている。そんなにひどい匂いではない。ロクにものを食べていないからだろう。仰向けになった祥一の脇の下に両腕を差し入れて、そのまま後ろに引きずる。祥一のカラダは驚くほど軽い。たぶん50キロを切っている。アルコール依存症患者に太った人間はいない。体温の高い死体が無いのと同じことだ。

 ベッドまで運んで戻ってくると、彩乃は既に床の掃除をあらかた終えている。

「ごめんね」

 進次郎は直接返事をせず、壁に向かって話しかけるみたいな口調で言う。

「オレはこれで帰る。あいつは医者に連れて行った方が良い。目を覚ましたら、二度とオレに電話するなと伝えてくれ」

 進次郎はしばらく前から祥一の名前を発音することに忌避感を覚えるようになっている。で、「あいつ」と呼んだり「あんたの亭主」と呼んだり、「あの酔っぱらい」という言い方をすることで、名前を口にせずに済ませている。

「……」

 彩乃は黙っている。このことも進次郎を苛立たせる。彼がよく知っていた頃の彩乃は、黙って困惑しているような女ではなかった。どちらかといえば、困っている人間を問い詰めにかかるような、はっきりした性格の女だった。それが、いまや自分の意図さえ説明できない。

「ゲロの掃除が手際良くなったからって、それで事態が改善するわけじゃないぞ」

 進次郎は、腹を立てているのではない。むしろ責任を感じている。あいつがあんなふうになったのは、もしかしたらオレのせいなのかもしれないと、時々そんなふうに考える。それが考え違いであることはわかっている。アルコール依存症患者の周囲にいる人間は、イラついたりうんざりしたり怒ったりすることに、じきに疲れる。そして、感情を浪費することに疲労した人間は、いつしか責任を感じるようになるものなのだ。彩乃が陥っている事態はそれだ。彩乃が責任を感じる必要はないということを、進次郎は何度も伝えた。その理由も詳しく説明した。アルコホリックの家族が自責の念を抱くことは何も改善しない。むしろ事態を悪化させるだけなのだ、と。しかし、彩乃は責任の物語から外に出ることができない。進次郎自身、うっかりすると自責の念に苦しめられている。もしかして、自責は怒りや失望よりも対処することの容易な感情で、オレたちはその中に逃げこんでいるのかもしれない。

「ごめんね」

 と彩乃が何度目かの同じセリフを繰り返す。

「あやまるのはよせよ。君たちはいつもあやまってばかりいる。今何時だと尋ねれば、ごめんねと答える。いい天気だと話しかけても、許してくれと言う。オレはそういう反応にうんざりしている。あやまることと、責任を感じることと、考えこむことをやめて、とにかく今夜はこのまま眠って、明日の朝一番に病院に電話をしてみてくれ。頼む」

「……ごめんね」

「帰る」

 終電は既に走り去っている。練馬の裏道をタクシーが流している時間でもない。アタマを冷やす意味でも、家まで歩いた方が良い。そう判断して、進次郎は12月の夜道を南に向かって歩いた。

「待って」

 振り返ると、彩乃がすぐそばまで追いついてきている。

「私、あの部屋にあの人と2人きりじゃいられない」

「……」

「お願いだからせめて始発の時間まで居て」

「無理だよ。オレだってあんたらと一緒にあの部屋にいるのはごめんだ。もううんざりなんだ」

「……でも」

「悪いけど帰るよ。オレには明日があるんだ。あんたらには無いんだろうけど」

 最後の一言は余計だった。彼らの現状を考えれば残酷に過ぎた。そう思ったのは、彩乃が泣いていることに気づいたからだった。これまで、どんなにひどいことがあっても、彼女は無表情で試練に耐えていた。その、見ようによっては冷酷にも見える顔で、彼女は、祥一が引き起こす酒の上のトラブルをひとつずつやり過ごして来たのだ。

「進ちゃんがどうしても帰るんなら、私が進ちゃんの家に行く」

「バカなこと言うなよ」

 おそらく男女の間で起こる間違いのうちのおよそ半分は、愛情とは無関係ななりゆきが誘発するものだ。少なくともオレの場合はそうだ、と、進次郎は考える。オレは、惚れた女を口説いたことがない。好きな女を家に招いたこともない。いつも間違った女とたいして望んでもいない関係を築いて、自分でそのことにびっくりしている。まるで自分のゲロに驚いて目覚める酔っぱらいみたいに。

 祥一が川越街道の路上でトレーラーに轢かれて死んだという知らせがはいったのは、2週間後の、大晦日の明け方だった。彼は、真夜中の国道の車線をまたぐ位置で眠っていて、そのまま通りかかった11トントラックに轢かれたのだという。

 祥一が、彩乃と自分の間に起こったことを知っていたのかどうか、進次郎は、そのことを彩乃に尋ねることができなかった。

 告別式の日、喪主をつとめたのは祥一の父親で、彩乃は終始無言のまま、塗り固めたような無表情で親族席の一角に座っていた。

 葬儀が済んで、遺品の整理や住んでいたマンションの立ち退きがひと通り終わった時、残ったカメは、責任上、進次郎が引き取った。

 名前は、彼らが飼っていた時のまま、進次郎で通すことにした。進次郎が進次郎を飼うというのも奇妙な話だが、祥一と呼ぶのはなおのことキツいし、ほかの名前もピンと来なかったからだ。

 ギリシャリクガメの進次郎は、二年ほど彼らに飼われていたことになる。8センチだった甲長は13センチまで成長している。甲羅の色艶も良い。大切に飼われていたということだ。

 カメを引き取って二ヵ月ほどが経過した頃、彩乃から一行だけの短い手紙が届いた。

「私たちのことは忘れてほしい」
 というのがその文面だった。

 私たちというのが、彼女と祥一のことを指すのか、彼女と進次郎の間にあった出来事を意味しているのか、進次郎には判断がつかなかった。

 カメは今年の4月に死んだ。

 思いがけないほど素直に涙が出た。

 祥一が死んだ時、彩乃と自分が泣かなかったのは、自分たち自身が半ば死んでいたからなのだろう。そう考えて、進次郎は涙を拭いた。

 彩乃には、あれ以来会っていない。忘れていない以上、会うわけにはいかないからだ。

小田嶋隆(おだじま・たかし)
1956年、東京赤羽生まれ。早稲田大学卒業後、食品メーカーに入社。営業マンを経てテクニカルライターに。コラムニストとして30年、今でも多数の媒体に寄稿している。近著に『小田嶋隆のコラム道』(ミシマ社)、『もっと地雷を踏む勇気~わが炎上の日々』(技術評論社)など。

「週刊文春」「週刊新潮」が同時スクープしたNHK女子アナ愛人クラブ報道の裏側

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NHK室蘭放送局HPより

「週刊文春」、「週刊新潮」がスクープしたNHK室蘭放送局の現役女子アナが愛人クラブに登録していた騒動だが、どうも様子がおかしい。NHKというブランドはあるものの、マイナー地方局の名もなき女子アナについて、ライバル誌が同時に動くなど不可解な点が少なくない。スクープの裏側に何があったのか。

「両誌ともに名前は伏せていますが、当該の女子アナは室蘭放送局の山崎友里江アナで、現在ホームページは閉鎖されています。情報番組で道内情報を伝えるレポーターとして活躍し、ネット上では『期待の地方アナ』として取り上げられることはありましたが、あくまで知る人ぞ知る存在でした」(NHK関係者)

 とはいえ、現役女子アナが愛人クラブに登録していた事実には驚かされるばかり。いったい誰がリークをしたのか。

「愛人クラブに登録していた会員からマスコミ各社に売り込みがあったようです。山崎アナと実際に会ったものの、1回数十万円と吹っかけられたため交渉決裂。また高飛車な態度だったこともあり、腹いせにリークしたということのようです。山崎アナも愛人クラブで自分を高く売り込むためか、『地方で女子アナをやっている』と口走ってしまい、それが命取りになってしまったようだ。「女子アナ」という肩書きはクラブにとっては常連に対して恰好の売り文句。興味を示した会員も多かったそうです」(週刊誌記者)

 リークにマスコミ各社は一斉に動いたという。

「『週刊文春』、『週刊新潮』の他に写真週刊誌も取材を進めていたようです。『新潮』の動きを察知した文春は、発売日前にネットにニュースを配信し先手を打ちました。後手に回った『新潮』は負けじと室蘭という支局名まで出し、山崎アナの親にも直撃しています。山崎アナ本人はNHKへの不満を語っていますが、さすがに支局内に擁護する者はいないようです」(前出・週刊誌記者)

 女子アナとして脇が甘かったと言わざるをえないようだ。

【磯部涼/川崎】スケボーが創り出すもうひとつの川崎

日本有数の工業都市・川崎はさまざまな顔を持っている。ギラつく繁華街、多文化コミュニティ、ラップ・シーン――。俊鋭の音楽ライター・磯部涼が、その地の知られざる風景をレポートし、ひいては現代ニッポンのダークサイドとその中の光を描出するルポルタージュ。

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深夜、川崎駅近くの某所でヴィデオ撮影を行う大富たち。

 最終電車が去ると、川崎駅周辺にはもうひとつの世界が立ち上がる。ついさっきまで帰宅者でごった返していた東口は静まり返り、地下道の入口は路上生活者たちのベッドルームと化す。隣接したショッピング・センターのショーウインドウの前ではダンサーたちが練習に励み、テラスへと続く階段では外国人市民が座り込んで缶ビールをあおる。彼らは、まるで、昼間の世界では使い道が決めつけられている場所を、夜の暗闇に紛れて思い思いにリノベートしているかのようだった。

 しかし、その様子を疎ましく思っている人間もいるようで、弁当入りのビニール袋をぶら下げた中年男性は不愉快そうに一瞥をくれながら階段を上っていったが、彼はテラスに出たところでふと足を止めた。コォォォォォン。背後からアスファルトを削るような音が聞こえてくる。男性が訝しげに振り返ると、脇をものすごいスピードで、スケートボードに乗った若者が通り過ぎた。唖然としていると、続けさまにもう1台。今度はヴィデオ・カメラを片手に持っている。先頭の若者は巨大な縁石をオーリーでもって軽々と飛び越え、そして、次に見えた縁石の端に飛び乗って、デッキでスライドしようと試みたところでバランスを崩し、派手に転がった。「ああ、ちくしょう!」。若者が痛みと悔しさをこらえながら、真っ暗な空を仰いでいると、もうひとりが滑り込んでくる。「惜しい惜しい! もう1回、やってみよう」。そこは、人の目を盗んで真夜中にだけ姿を現す、幻のスケートパークだ。

川崎を代表するラッパーもいたスケートボード・シーンの歴史

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ゴールドフィッシュは堀之内のちょうど入り口に店を構えている。

 川崎駅に程近い堀之内は関東を代表する性風俗街のひとつだが、昼過ぎに足を運ぶと、そこにはなんとものどかな雰囲気が漂う。一角に店を構えるスケート・ショップ〈ゴールドフィッシュ〉の前では、店主の大富寛が日差しを浴びながら古ぼけた自転車をいじっていた。横には持ち主の老人。「はい、直りましたよ」「ありがとうね。お代は?」「簡単だったから、今日はいいですよ。また、空気入れにでも来てくださいね」。お礼を言った老人は自転車にまたがり、ヨロヨロしながら去って行った。

「ウチは近所の人に自転車の修理屋さんだと思われてますからね」。堀之内のイメージとはギャップがある、カラフルなスケートボードやピストバイクが並べられた洒落た店内で、大富は笑う。この店に集うスケーターたちに、そして、地元の人々に“コボ”の愛称で親しまれている彼の、そのリラックスした姿は、深夜、スケート・ヴィデオの制作のために格闘していたときとは真逆のようだったが、表情からは若いスケーターを励ます際と同じ優しさがにじみ出ていた。

 大富は78年、川崎駅西口側の南幸町で生まれた。団体行動が苦手な少年がスケートボードを始めたのは中学1年生のとき。やがて、駅前のショッピング・センターに入っていたスポーツ・ショップに通ううちに、彼はこの街にもうひとつの世界があることを知る。「だんだん川崎のスケート・シーンを把握していったんですけど、特に『この人たち、ヤバい!』と思ったクルーがあって」。それは、臨海部を拠点としていた〈344(スリー・フォーティフォー)〉だ。「〈344〉は、年上の人たちのクルーで、当時、すでに川崎で名を馳せてたし、僕なんかは格が違いすぎてしゃべりかけられなかった。中でもハル君(関口晴弘)はヒーロー。毎日、彼が滑ってるところをじっと観て、帰った後にひたすら練習するっていう。早くうまくなってあの人たちの輪の中に入りたい、その一心でしたね」。そんな〈344〉には“事務所”と呼ばれる溜まり場があった。「スケボーの板とかスニーカーとかがいっぱい置いてあって、子どもの欲しいものが何でも揃ってる感じ。次第に僕も入れてもらえるようになったんですけど、実はそこはハル君の実家〈スーパーみよしや〉の事務所で、〈344〉は“みよし”から取ったと知ったときはガクッとなりましたね(笑)」

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ゴールドフィッシュの店長・コボこと大富寛のスケートボード。

 ちなみに、大富はスケートボードによって、川崎のユース・カルチャーのメインである不良の世界へ取り込まれずに済んだのだという。「おっかない先輩に呼び出されるんですけど、『オーリーやってみろよ』とか言われて見せると、『おお、すげぇな』って。今考えると、不良の人たちはスケーターをオルタナティヴな存在だと思ってた節がありますね。おかげで、カンパとかも回ってこなかった」

 また、当時、〈344〉のメンバーたちに可愛がられていた、大富よりさらに若いスケーターは、後に川崎を代表するラッパー=A-THUGになる。「あっちゃん(A-THUG)とは年が近いんで、よく一緒に滑ってましたよ。彼はとにかく外さないんです。駅前のデパートの屋上で大会があったときも、優勝したのはあっちゃんだった」。やがて、大富も技を磨き、中学3年生で〈344〉のヴィデオに出演する。「その後、いろいろなスポンサーが付きましたけど、これまでのキャリアで一番うれしかったのは、〈344〉に入れたことですね。親にまで自慢しましたもん。『いつも話してるハル君いるじゃん? そのハル君のチームに入れたんだよ!』って」

 しかし、その頃が、川崎スケート・シーンの最初のピークだった。「僕の世代でスケボー・ブームが起こったものの、みんな、免許が取れる年齢になってバイクに乗り出したり、ヒップホップが流行ってそっちにハマったりで、スケボーから離れちゃうんですよ。しばらくして、〈344〉の人たちもやめて、いよいよ、冬の時代が来る」。そんな中、大富はスケーターとして名を上げていったが、05年、彼にも転機が訪れる。「雑誌の撮影が朝から入ってたんですけど、前日の夜に雨が降ってたんで、中止だと思ってクラブで遊んでたんですね。そうしたら、朝、編集の人から電話がかかってきて、『〆切がヤバいんで、撮影しちゃいましょう』って。ただ、酒は抜けてないし、足は棒だし、さっさとキメないとヤバいと思って焦ってやったら、雨で滑って、縁石の角で顔面を強打して、血だらけ。目を開けたら、視界が真っ黄色で、失明したと思いましたね。結局、大丈夫だったんですけど、手術の間、いろいろと考えすぎちゃって。その後、スケボーと距離を置くようになりました」

 それから、数年、大富はDJに打ち込み、cbtek!(コボテック)の名義はクラブ・シーンでも知られていく。一方で、仕事ではなく、遊びとしてスケートボードに乗るようになった彼は、あらためて、自分にとってこの文化が大切であると感じたという。そして、10年、大富は〈ゴールドフィッシュ〉をオープンする。「5年、地元で滑ってなかったんで、その間にやり始めた子は僕のことを知らないんですよ。だから、まずは、だんだんと関係をつくっていって」。また、大富は元〈344〉の関口にも声をかける。「その頃、ハル君はスケボーをやめてだいぶたってたんですけど、1年ぐらいかけて口説き落として。彼は僕にとってのスターなんで、もう一度、やってほしいっていうのもありましたし、若い子たちにとっても、あの世代がまだ続けてるのって良いプレッシャーになると思うんですよね。撮影のたびに『お前、オレの年知ってる? 40歳にこんなことさせんなよ』って文句言われますが(笑)」それは、大富による川崎スケート・シーンのルネサンスであり、新たな世界の創造でもあった。

社会のしがらみとは無縁な高速道路下のスケートパーク

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週末の午後、大師河原公園スケートパークに集ったスケーターたち。年齢層が幅広い。

「おお、ヤバい!」。両腕にタトゥーを入れた若者がキャバレリアルを決めると、どっと歓声が沸いた。1対1でトリック(技)を見せ合うゲームをやっているのは、大富と、最近、川崎に移住したという日系ブラジル人のマルセル。2人を囲んでいるオーディエンスには、ベテランの関口もいれば、彼の子どもより若い中学生もいるし、地元が川崎の者もいれば、川の向こうの羽田や鶴見からやって来た者、あるいは、〈ゴールドフィッシュ〉の所属ライダーになるために松山から上京した者もいる。マルセルは日本語をほとんどしゃべることができないものの、スケートボードという共通言語を通してみんなと会話をしている。頭上の高速道路の合間から降り注ぐ夏の日差しが、足元の白いアスファルトに反射する中で繰り広げられるその光景は、どこか白昼夢のように感じられた。国籍も年齢も、川崎の不良にとって何よりも重要なはずの縄張りも関係のない世界。「ドゥ・ユー・ライク・カワサキ?」。マルセルに下手な英語で尋ねると、彼も片言の日本語で答えた。「ライク! スケボー(シーン)、メッチャイイネ」

 そこは〈大師河原公園スケートパーク〉といって、大富をはじめとした有志が地元議員へロビーイングを行い、14年に開設されるに至った川崎初の公営パークだ。そして、その経緯や、〈ゴールドフィッシュ〉が“街の自転車屋さん”としても親しまれている状況の背景には、大富の、もともと、アウトローだったスケートボード・カルチャーを、社会と結びつけようという思いがある。しかし、それは、同文化のエッジが失われることを意味しない。彼がデザインにかかわった〈大師河原~〉のセクション(障害物)が、街中の縁石や坂道に近い、無骨なつくりになっている事実からもわかる通り、大富にとってはあくまでもストリートで滑るというアウトローな行為こそがスケートボードの本質だし、むしろ、彼は同文化によって、社会からはみ出した者を受け止めようと考えているのではないだろうか。

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大師河原公園スケートパークでトリックを決める大富。

「ドロップアウトした奴も周りにはいます。川崎はそういう街です。そこで、僕が普通に生活できているとしたら、やっぱりスケボーが好きだからだと思う。例えば、ドラッグをやってたら滑れないわけだし。最近、若い子が悪さを覚えて、スケボーをやめちゃって。そういうのは悲しいけど、僕は教育者じゃないし、できるのは『悪さより、こっちのほうが楽しいじゃん』ってスケボーの魅力を伝えることだけですね」。そう言う大富に、『川崎のスケートボード・シーンの特徴は?』と聞くと、彼は「難しい質問をするなぁ」としばらく考え込んだ後でこう答えた。「自分たちが住んでいる街でやれることなんて限られてるじゃないですか。新しいビルがどんどん建つわけじゃないし、ストリートで滑る際のスポット(スケートボードに適した場所)も昔からあるものを使うしかない。そういう中で、レコードを塗り替えていくのが楽しい。ハル君の世代も僕らの世代も飛べなかったステア(階段)で、ある日、新しい世代がメイク(技を成功)する。その光景を見るのは、同じ土地で長くやってることの醍醐味ですよね」。それは、路上で積み重ねられていく、川崎のもうひとつの歴史である。(つづく)

(写真/細倉真弓)

【第一回】
【第二回】
【第三回】
【第四回】
【第五回】
【第六回】
【番外編】

磯部涼(いそべ・りょう)
1978年生まれ。音楽ライター。主にマイナー音楽や、それらと社会とのかかわりについて執筆。著書に『音楽が終わって、人生が始まる』(アスペクト)、 編著に『踊ってはいけない国、日本』(河出書房新社)、『新しい音楽とことば』(スペースシャワーネットワーク)などがある。

謎のドラマ挿入歌の歌い手は時任三郎の娘だった! Cana(時任花夏)が歌手デビュー

【「月刊サイゾー」立ち読みサイト「サイゾーpremium」より】

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 7月29日に『あなたと ずっと』でデビューを飾る新人シンガー・Cana(かな)。同曲はAmazonプライム・ビデオの日本オリジナルドラマ『はぴまり ~Happy Marriage!? ~ 』(ディーン・フジオカ主演)の挿入歌。長らく歌手名が明かされていなかったため、「誰が歌っているのか?」とSNS上で話題を呼んでいた。

 またCanaが、俳優・時任三郎の長女であることも大きなニュースとなっている。その彼女にデビューまでの経緯と、作詞にも関わった『あなたと ずっと』の内容についてインタビューを行った。

■海外生まれヒップホップ育ち…だけどデビュー曲はバラード!

――歌手デビューの以前から女優業もされていましたが、芸能界を目指すきっかけは何だったんでしょうか?

Cana 最初は高校生のときのスカウトですね。当時は「とりあえずやってみよう」くらいの感覚でしたが、ロサンゼルスの学校で演技の勉強を始めてから、女優を目指すようになりました。

――それが歌手デビューとなったのは?

Cana 帰国後に、現在の所属事務所の方から「歌もやってみようか?」と提案があったんです。私も音楽は大好きだったので、それから事務所の方と曲を作ったり、デモを録ったり、事務所のライブに出たりするようになり、それが今回のデビューにつながった形です。

――でもデビュー曲ながら、バラードに映える堂々たる歌声でとても驚きました! 先ほど事務所の方に話を伺ったら、Canaさんがカラオケで歌ったのを聞いて、「これは歌をやるべきだ」という話になったそうですね。

Cana そのカラオケのとき、実は動画まで撮られていたという話をさっき初めて聞きました(笑)。「バラードっぽいのを何か歌って」と頼まれて歌ったものだったんですよ。

――出身はニュージーランドなんですよね。時任三郎さんは子育てのために家族で海外移住していた時期がありましたが、そのときにお生まれになったと。

Cana そうですね。9歳まではカナダとニュージーランドで育ちました。子供の頃は朝にMTV(ポピュラー音楽のビデオクリップを流し続ける音楽専門チャンネル)を見るのが楽しみで、最初に好きになったのがThe Black Eyed Peasの『Where Is The Love?』(2003年)だったのを覚えています。

――小さな頃から音楽が好きだったんですね。

Cana 好きでしたね。ピアノやコントラバスをやっていた時期もありますし、他にもいろんな楽器をかじっています。でも、デビュー曲のようなバラードを歌ったことはなかったですし、好きで聞いてきた音楽も50CENTやEminemのようなラップばかりでした(笑)。

――それがバラードでデビューと(笑)。ただ、お父さんの時任三郎さんも歌手活動をされていますし、音楽を好きになったのはお父さんの影響もあるのでしょうか?

Cana 父は家でもギターを弾いて歌っていたので、今思えばそうかもしれないですね。でも日本に戻るまでは、父の仕事をあまり理解していなくて、ただ好きで歌っているだけの人だと思っていました(笑)。

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