ありのままを見つめられない男性には、「心の醜形恐怖」がある? 「男性論ルネッサンス」検証
『非モテの品格 男にとって「弱さ」とは何か』(集英社新書)の著者・杉田俊介さんと、Twitterで「男らしさ」について積極的にツイートされているまくねがおさんによる連載「男らしくない男たちの当事者研究」。今回から複数回にわたって、現在の「男性論ルネッサンス」について、3冊の本を取り上げます。
「おっさんバッシング」はしてもいい?
杉田 さて、「男らしくない男たちの当事者研究」第二回目です。
ここ何年か、いわば「男性論ルネッサンス」とでも呼ぶべき活況になっています。それらの中から田中俊之『〈40男〉はなぜ嫌われるか』(イースト新書)、坂爪真吾『男子の貞操』(ちくま新書)、二村ヒトシ『すべてはモテるためである』(文庫ぎんが堂)の三冊を取り上げてみることにしました。今回は田中さんの本が中心になると思います。
「草食系男子」の話などもあわせて、これらの著書は「男性問題」を自分のこととして考えたい、と思う男性たちの有効な手引きになりそうです。将来、若い人や子どもたちが性や恋愛で悩んだ時にも勧められそうです。それぞれのアプローチの違いも、なかなか面白いですね。恋愛や性愛のことで悩むヘテロ男性たちにも、色々な選択肢や対処法があった方がいい、と思いますしね。
まくさんは最近の男性論ルネッサンス的な状況については、どうですか? 我々の当事者研究も、その流れの中にあるわけですけれども。
まく 田中さんの『<40男>はなぜ嫌われるか』が2015年、坂爪さんの『男子の貞操』は2014年、二村さんの『すべてはモテるためである』が2012年に、それぞれ出版されているわけですよね。確かに、一昨年ぐらいから男性論をテーマにした本が沢山出版されている印象が僕もあります。
僕は1、2年前に、この三冊の本に初めて目を通しました。今回、三冊ともあらためて読み直してみましたがとても面白かったですね。それぞれアプローチ方法が違っていて。読み比べするのも、楽しかったです。
杉田 ちなみに女性たちの側からも、渋谷知美さんや奥田祥子さん、水無田気流さんらが男性論を書いています。そのうちこれらについても話し合えればいいですね。
男性論ルネッサンスの背景には何があるのか。ひとつは、まず日本の戦後型の男性像(男らしさ)が大きく変化しているということ。たとえば働き方も企業の終身雇用が当たり前ではなくなったり、男性の非正規雇用も増えていたり、あるいは恋愛や性愛、家族のあり方も根本的に考え直さねばならなくなってきた。少なくとも、それらはすでに自明のものとはいえない。素朴にそういうことがあると思います。
それに加えて、最近よく指摘されることですが、シスヘテロのマジョリティ男性たちの葛藤や鬱屈を公の場で語るという社会的な回路があまりない(ように思える)こと。強くてデキる男性、男らしい男性としての自分について語る言葉はあるけれど、いったんそういう「男」から脱落すると、ひたすら黙って耐えるしかなくなる。そういう言葉の無さをこじらせると、ねじれた被害者意識になってしまったりする。それをマジョリティかマイノリティか、という話として論じられるのかどうかについての疑念も、前回、話題にあがりました。そういう状況の中で、男性学・男性論的な語りが様々な形で出てきているのかな、と。
まく いま杉田さんが挙げてくれた背景に重なるのかもしれないですが、田中さんの『<40男>はなぜ嫌われるか』を読みながら顕著に感じたのは、男性論的な語りが注目され始めているということでしょうか。もっと言うと「鬱陶しいおじさん」叩きみたいな言葉が売れるというのかな。
そういう意味では、読みながらとても複雑な気持ちにもなりました。田中さんが言うように、「鬱陶しいおじさん」にはなりたくない。でも、「ああはなりたくない」という気持ちであれこれ考えるのって、おかしいんじゃないのかな、という気持ちもあったりして。そうした息苦しさというか、モヤモヤを男性たちが感じ始めている。それも、男性学・男性論的な本が多く出版されている背景なのかもな、と思いましたね。
杉田 確かに差別を批判するリベラルな人たちの中にも、「中高年男性批判」「おっさんバッシング」はしてもいい、というタイプの人を時々見かけますね。それを単純に「男性差別だ!」とまで言えるかどうかも微妙なところがあり……そういうもやもやっとした感じがつねに付きまとうようなところはありますね。
というのは、そこには同時に、シスヘテロでマジョリティの男性たちが男性問題を自分の言葉で語ることの危うさが見え隠れしてもいるからです。被害者意識にもとづくバックラッシュになりかねないところがある。大きな話になってしまうけれど、近年の国内の「日本会議」的なものに象徴される右傾化や、トランプ現象などを考えると、多数派の男性たちが男の生きづらさや「男もつらいよ」と語ること自体に警戒心を抱かれる、というのはもっともなことだと思えます。しかしやはりそこは内側から男性的な葛藤を言葉にしていく必要もあり……このへんは実に微妙で悩ましいですけれども……。
ありのままに見つめられない「心の醜形恐怖」
まく 例えば田中さんの『<40男>はなぜ嫌われるか』は、30代後半から40代前半を生きる男(<40男>)の置かれている状況を色んな角度から光を当て、著者の田中さんがコメントをしていく、という本でした。ファッションや、友だち、恋愛感情、仕事、夢、政治など。僕自身も36歳ですから、読みながら自分の今の状況と重ね合わせて思うところが沢山ありました。
杉田 語り口がうまいし、とてもわかりやすいですよね。色々なマンガを引用したりして。
まく 一方で、田中さん自身が結構苦しそうだな、と思ったりもしたんですね。あとがきに「自分も書いていて苦しかった」といったことを書かれていましたが、一方で鬱陶しいオジサンを批判するときに凄く筆が踊っているようにも見えたりして。引き裂かれてるんだろうな、と。田中さんのこの書きぶりが、まさに男性が男性問題を語るときの難しさを表していたのかもな、と。そんなふうに思いましたね。
杉田 田中さんは、最近の男性学ブームの中心にいる人ですね。多くの本を出しているし、メディアへの露出も多い。個人的な印象だと、かつての50代・60代の男性をメインターゲットにしていた1990年代的な男性学を、〈40歳〉という中年層まで押し下げてきた、という印象があります。とにかく、さらっと読めて、とてもわかりやすい。けれども、今まくさんが言ったように、ところどころに引き裂かれた感じがあるんですよね。
たとえば、自分の姿を鏡に映して、何も成し遂げられなかった40男のしょぼい現実をちゃんと見つめよう、と何度も読者に語りかけるところ。批判もあるかもしれないけど、僕はあそこ、好きなんですよね。ちゃんと自分の惨めな現状を認められないと、色々と手遅れになるし、さらに「男らしさ」をこじらせてしまうよと。若い女性からの性的な承認を求めたり、「若いですね」と言われたくて仕方なくなる、とか。
僕には鏡恐怖症と醜形恐怖があるんですけど、それほど病的な形ではなくても、もしかしたら、大人の男性たちの中には「心の醜形恐怖」みたいなものがあるのかもしれないですね。上でも下でもなく、右でも左でもなく、まっすぐに、心を揺らさずに鏡に映った「男としての等身大の自分」に向き合うことができる、っていうのは結構大切ではないか。僕、ほんとにそれが出来なくて、日々、困ってますから……。
まく うーん……、いやー、わかります。「自分をありのまま見つめよう」というところ。ホント、難しいです……。二村ヒトシさんも「自己受容」が重要だ、と述べていて、田中さんの本と同じようなメッセージを送ってくれているとは思うんですが……。本を読んで「自分のありのままを認め、受け入れよう」と思っても、日常生活で自分のことを思っているときは、「僕はダメだ……」とか「これで(凄く)良いんだ!」とか、0か100かになっちゃう。「心の醜形恐怖」、これは難敵です。ラスボスです。
杉田 『<40男>はなぜ嫌われるか』の最後の方に出てくる「これからの40年」問題もひしひしと怖いところですね。男性は特に、人生の折り返し点のあとの、40歳~80歳の時期の人生の「物語」がないんだと。若い頃は学校、恋愛、仕事、家族……みたいな分かりやすい上昇型の物語があるけど、人生の限界がみえて次第に心身が老いていくと多くの男性たちにとっては成長型モデル以外のモデルがない。そうすると会社や仕事に自分を託すしかなくなるし、女性たちと比べて会社以外の社会的なネットワークが薄い。
田中さんが男性にとっての友達問題の大切さを強調するのもそのへんでしょうね。男性は定年退職後に、仕事関係の「知り合い」はたくさんいたけど、「友達」はいないことに気づくんだ、とか。仕事の成果や能力の競い合いではない、たんなる「雑談」が出来る男性同士の場がなかなかないんだ、とか。
まく ホント、読んでいて、突き刺さります……。僕も「友達」はいないし、「雑談」できる場にもなかなか行かないし、行っても「雑談」できる自信はないし……。誰かと会ったときに、「仕事」とかの役割抜きに、一緒にいて何となく楽しむ、ということをあんまりできるイメージがないんですよね……。
これはきっと、やらずにクヨクヨ「無理なんじゃないか」と妄想を膨らませるんじゃなくて、実際にやってみて「ああ、じんわり楽しいな」という経験を重ねるのが一番なんだろうな、とは思ってるんですが、なかなかね……。
田中さんの本、ホントに耳が痛いんですけど、その痛さが大事なんだろうな、ともすごく思います。いっぺん「底つき体験」というか、とことん「このままじゃマズイ」と思わなきゃ変わろうという行動に出られないですから。多くの男にとっての、40歳~80歳の人生の「物語」、なんとか僕たちの手で作りたいものですねえ……。
早くおじいちゃんになりたい!
杉田 まくさんからすると、田中さんは少し年上感があるんじゃないですか? 僕の印象だと、田中さんの本って、読んでいると40歳よりもちょっと老けている感じがあるんですよね。最初読んだ時に、もう少し年上の人なのかなと思ったら、同い年なのでちょっとびっくりした。
まく ええ、少し年上感はありましたね。出てくる話題も、僕より少し上の世代の感じは、確かに。ただ世代間のギャップというより、「田中さんって僕と違って、ファッションとかに乗っていた、乗ろうとしてきた人なんだな」というギャップの方が僕には気になりました。僕はこれまで、ファッションのことを全然気にしないで生きてきたので。僕と同い年で、それなりにファッションに気を使ってきた人は世代間ギャップの方であれこれ思うのかもしれないけど、僕はそこはあんまり……。それより、モテ/非モテ的なギャップの方が気になっちゃって。
杉田 確かに田中さんにはバブル的なものの記憶があるんでしょうね。でも一度それが破綻して、若い頃に挫折というか幻滅のようなものを経験した、というか。若い頃に就職氷河期やデフレ不況などがあって、戦後的な男性のライフスタイルの梯子を外されたという。
まく なるほど。
杉田 しかし、これまで何となくいっしょくたにしてきましたけれど、まくさんは「中年男性」「おじさん」というアイデンティティはまだ無いんじゃないですか? 36歳ですよね。
まく 僕は仕事の関係で、自分よりも15歳近くも年の離れた若い人と一緒にいる機会が多いから、普段「自分はおじさんだ」と意識するようにしているので、その影響かなあ。自分が「おじさん」だという感じは、なるべく大切にしてます。それこそ田中さんの本を読んだ影響もあるかもしれないけど。自分が「若い」と勘違いしないようにしていると言いますか。実際、若い人と会話していると、世代間ギャップを感じるシーンは多いですしね。
杉田 職場環境のことは大きいですよね。田中さんも大学教員だから、そういう意識はあるのかな。僕はいまフリーライターで、一人で家にいる時間が多いから、その辺の違いもある気はしますね。
まく なるほど。突然ですけど、僕、早く「おじいちゃん」になりたいんですよ。そういう気持ちって、杉田さんにはないですか?
杉田 どうだろう。あまり考えたことないですね。
まく ないかー……。なんか、色々降りることができて良いな、と。すいません、突然へんなこと言って(笑)。
杉田 様々な欲望やしがらみから早く解放されたい、解脱(?)したい、という気持ちなら、少しわかりますけれどもね。ただ、僕の印象だと、たとえ年老いてじいさんになっても人間は色々な欲望やしがらみから解放されたりはしないような……。かえって幼稚な欲望がむき出しになったり、がんじがらめになったり……。
まく うう、そうか……。確かに、現実の「おじいちゃん」は、そうなのか……。
杉田 もちろん色々な欲望や自意識から自然に「降りられる」老人もいるとは思うけど。でも老人になっても介護施設先でセクハラしたり、パワハラしたり、小さな権力をふりかざしたり、リハビリする男同士で能力競争や承認欲求を戦わせあうというのは普通にあることですから。そういうじいさんになってしまうのは怖い、という気持ちは正直ありますよ。「男」という病が年齢によって自然に解決する気がしないというか。これは非常に傲慢な言い方かもしれないけど。ただ怖いものは怖い。
だから田中さんが「鬱陶しいおじさん」にはなるのは嫌だ。「清々しいおじさん」になりたい、とおっしゃるのは何となくわかるんですよ。僕も人間としてはかなり鬱陶しいタイプですからね……。ただ、僕の『非モテの品格』等の男性論はいまだに「こじらせ青年」というか、田中さんの中年らしさに比べるとだいぶ子どもっぽくて成熟していない感じがしますが……。
(次回、「40男」を嫌っているのは女性ではなく自分? 軽さと過酷さを兼ねそなえた『〈40男〉はなぜ嫌われるか』に続く)