『ニッポンの音楽』が描く“Jポップ葬送の「物語」”とは? 栗原裕一郎が佐々木敦新刊を読む
【リアルサウンドより】
「史観」という言葉がある。「唯物史観」であるとか「自虐史観」であるとか、音楽の場合だと「はっぴいえんど史観」であるとか、歴史に対するときに採られる見方や立場、価値判断のことだ。これが極端に偏ると、捏造に基づく偽史や、悪い意味での歴史修正主義に陥ったりするわけだが、無数にある史実のどれを選び、どう評価するかということだけでも、史観は自動的に生じてきてしまうものではある。学校の歴史教科書にも史観はあるし、たとえば、あらん限りの資料を渉猟し、できうる限りそれらをそのまま提示して、1968年という「政治の季節」を実証的に丸ごと描き出そうとした小熊英二の『1968』にだって史観は存在している。
結局、人それぞれに史観はあり、史観の数だけ歴史はあるわけで、主観と客観は史観の強弱のグラデーションでしかないということもできるだろう。
歴史を描こうとする者は、このグラデーションの幅のどこかに自分を置くことになるわけだが、本書はかなり主観に寄ったところに位置している。「はじめに」で「筆者なりの、あるひと繋がりの「物語」としての「歴史」を綴ってみようというのが、本書の企図」だと宣言されているので、この立場は意識的に選ばれたものだ。当然、小熊『1968』が意図したような全体性や実証性はほぼ自動的に放棄されている。というより、枝葉を徹底的に刈り込み、「物語」を際立たせることにこそ、むしろ狙いはあると見るべきだ。