ベッキーの直筆手紙に見る“抜けてる”点とは? 不倫された妻への配慮不足と復帰への焦り
羨望、嫉妬、嫌悪、共感、慈愛――私たちの心のどこかを刺激する人気芸能人たち。ライター・仁科友里が、そんな芸能人の発言にくすぐられる“女心の深層”を暴きます。
<今回の芸能人>
「恋愛関係だったというべきでした」ベッキー
(「週刊文春」2016年5月5日・12日 ゴールデンウィーク特大号、文藝春秋)
仏作って魂入れず。用意周到に準備したようで、肝心な部分が抜けていることを表すことわざだが、ベッキーを表すのに、これほど的確な言葉はないように思える。
ゲスの極み乙女。・川谷絵音との不倫騒動で休業に追い込まれたベッキーが、不倫をすっぱ抜かれた大本である「週刊文春」(文芸春秋)からの再三に渡るインタビュー要請に、手紙でもって回答した。
パソコン全盛の現代に、ペン習字の見本のような美しい手書きの文字。相変わらず、「心がこもっている」とされることの実践に余念がないが、内容が「抜けてる」のである。
手紙において、ベッキーは川谷の妻に会って謝罪したいと述べているが、妻側に面会を拒まれているため、それが実現できていないという。不倫は妻の権利を侵害する行為であるから、“被害者”である妻に“加害者”ベッキーが謝罪をするのは、理屈の上では正しい。
が、常識で考えてみてほしい。結婚生活をめちゃくちゃにした不倫相手に会いたいと思う妻はほとんどいないし、顔を見たら理性を失って、余計に憎悪が募るのが人情というものである。おそらく、ベッキーは「心をこめて謝れば、きっと誠意は伝わる」と考えているのだろうが、それはベッキー側の理論であって、不倫された妻に対する配慮があまりにもない。
もう一つ、ベッキーの「抜けてる」ところ。それは不倫をしていないと嘘をついたことについて、本当の意味で謝罪していない点である。正月に既婚男性(川谷)と、その実家に遊びに行った時点で、ただならぬ関係であることを予想させるが、ベッキーは記者会見で川谷とは友人関係であると貫き通した。あの発言を真に受けた人はそういないと思うが、「文春」の続報(LINEの流出)によって、友人関係が嘘であることが裏付けされてしまった。
嘘をつくことは必ずしも悪いとは言いきれないが、バレてしまった嘘は罪悪である。必要以上に長いお辞儀や、謝罪会見のお約束、白いブラウスを着る(心理学的に謝罪会見に向く色は、黒と白だそうである。余談だが、酒井法子や矢口真里も、黒や白×黒という組み合わせで会見をしている)など、例によって会見では「心をこめて」謝罪したわけだが、嘘の露見で、ベッキーはさらなる窮地に追い込まれることになった。
ベッキーは謝罪代わりに、手紙の中で川谷との関係を「恋愛関係だったというべきでした」と書いているが、この「うっかりミスです」とでも言いたげな表現、不用意すぎるという意味で、やっぱり「抜けてる」としか思えないのだ。
早く禊を済ませて、許されたい。早く復帰したい。ベッキーは焦っているように、私には感じられる。だからこそ、川谷の妻と会って「あなたを許します」という言葉を引き出して世間に公表する必要があるのだろうし、インタビューでおかしな言質をとられないために、書面での回答としたのだろう。が、川谷の妻や世間に許されることと、復帰することは同一線上にはない。なので、この2つを同時に追い求めると、どんどん復帰は遠のくと思うのだ。
もし、ベッキーが本気で川谷の妻に許されたいと思うのなら、直接妻に会わず、間違っても手紙なんて渡さず、弁護士に間に入ってもらって不倫の慰謝料の相場に“気持ち”を加えたまとまった金額を、川谷の妻に渡すことが一番“誠意”が伝わると思う。
そして仕事復帰したいのであれば、「すみません、嘘ついてました」と謝るか、何を言われようが平気な顔でいるしかない。そんなことできないというのなら、完全にほとぼりが冷めるであろう来年の今頃まで待って、「婦人公論」(中央公論新社)で独占告白(「試練が私を育ててくれた」とか「支えてくれる家族がいたから」とかそんな感じの見出しだろう)するか、桜の季節に瀬戸内寂聴の住む寂庵で対談し、センセイに慰めてもらうのが良いだろう。
みんなに許してもらうことなんて、どだい不可能なのである。オファーがなければ仕事として成立しない世界ではあるが、ベッキーに「抜けてる」のは、何が何でも復帰したいという“覚悟”に思えてならない。
仁科友里(にしな・ゆり)
1974年生まれ、フリーライター。2006年、自身のOL体験を元にしたエッセイ『もさ子の女たるもの』(宙出版)でデビュー。現在は、芸能人にまつわるコラムを週刊誌などで執筆中。気になるタレントは小島慶子。最新刊は『間違いだらけの婚活にサヨナラ!』(主婦と生活社)。
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