正義VS正義の戦いを描く『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』正しいのはどちら?
【リアルサウンドより】
マーベル・ヒーロー達による正義の組織・アベンジャーズが、チーム・アイアンマン、チーム・キャプテン・アメリカの二派に分かれ大乱戦を繰り広げる映画『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』。彼らはなぜ仲違いをしてしまったのか? そしてどちらのチームが正しいのか? ここでは勝敗の行方には触れず、作品の背景や内容を読み解きながら、それらの答えを考えていきたい。
本作は、マーベル・スタジオが展開する各作品のクロス・オーバー世界、MCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)「フェイズ(シーズン)3」最初の作品にあたる。全ての作品を統括するケヴィン・ファイギ製作社長によると、各フェイズは毎回、ヒーローが集結し強大な敵を打ち破る『アベンジャーズ』シリーズによってクライマックスを迎えるという。今まで協力していたアベンジャーズのヒーロー達が分裂し敵対してしまう不穏な展開が、今フェイズの滑り出しとなる。
本作を楽しむためには、事前にキャプテン・アメリカとアイアンマン、アベンジャーズなどのシリーズを観ておきたい。余裕があれば、アントマンやハルクなど、本作の設定や物語に関わってくる今までの作品群を観ることで、より深く楽しめるはずだ。とくにアントマンのどん底人生を目にしてる観客は、本作での彼の戦いが何倍にも楽しく感じられるだろう。ただそれは、MCU作品に手を出したら最後、有機的に繋がっている様々な作品を芋づる式に追いかけてしまうことを意味する。これがアメコミ原作の方式を踏襲する、マーベル・スタジオの戦略であり、大きな商業的成功を収めている理由のひとつだろう。
自身もマーベルオタクであるファイギ製作社長が目を光らせるこの方式は、アメコミファンをもうならせる作品世界への理解を下敷きとする反面、スタジオ主導のシリーズという印象もある。だが、そのなかで作家的な個性を最も発揮したのが、本作の監督・ルッソ兄弟と脚本家チームだ。彼らによる、同名のコミックをベースにした前作『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』は、ロバート・レッドフォードを出演させ、彼の代表作のひとつである『大統領の陰謀』に原作コミックの要素を重ね合わせ、正義の組織の内部にある闇にキャプテン・アメリカが立ち向かっていくという、ヒーロー映画の枠を超えた本格的なサスペンスが展開される。ファイギ製作社長も「この作品がMCUの世界を激変させた」と述べるように、それ以降のマーベル映画の方向を決定してしまうほどの力を持った意欲作である。今まで描かれてきた正義と悪の戦いが、ここで一気に立体的な複雑さを持ち、現代社会とのリンクが強まった。ルッソ兄弟は続編である本作のみならず、マーベル作品から離脱するジョス・ウェドン監督の後を引き継ぎ、アベンジャーズの次回作を手がけることが決定している。
「ウィンター・ソルジャー」に続く本作は、継続される陰謀劇の脚本のなかに、やはり同名の原作コミック「シビル・ウォー」に描かれているアベンジャーズ分裂の物語を一部改変し組み込むという、かなりアクロバティックな脚本となっている。
アベンジャーズ亀裂の発端は、フェイズ2『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』での戦闘にあった。彼らの戦いによって一般市民に犠牲者が出ていたのだ。その後、任務中の不祥事が重なることで、多くの市民から、彼らの戦いは信用ならない自警活動であるという批判が巻き起こった。そこでアベンジャーズに、ある提案が持ち込まれる。国連によってヒーロー達の活動を制限し管理することに同意しろというのだ。
DCコミック原作の映画『バットマン vs スーパーマン ジャスティスの誕生』でも同様のテーマが設定されたように、ヒーローの戦闘行動における責任が描かれる背景には、実際のアメリカの軍事行動の問題がある。2001年の同時多発テロ直後アメリカ政府は、イラクがテロ組織を支援し、大量破壊兵器を持った「悪の枢軸」だとして、国際的な決議を経ないままイラクを空爆し、子供や老人を含めた一般市民の多数の命をも奪った。だが結局、テロとの関係は証明されず、大量破壊兵器があるという証拠も捏造されたものだった。このアメリカの正義の失墜は、その後アメリカンコミック・ヒーローの戦う意味に、暗い影を落とすことになった。この問題が映画にも影響を及ぼすのは必然的である。
本作では意外にも、一見傲慢に見えるアイアンマンが、提案を承諾することよって過失の責任を取ろうとする。それは彼自身も、肉親を不慮の事故によって奪われるという経験があったからだ。しかしキャプテン・アメリカはその選択に異議を唱える。キャプテン・アメリカは前作で経験したように、正義のはずの組織が道を誤ってゆく様子を目の当たりにしているのだ。もともと原作のキャプテン・アメリカは、アイアンマンより20年も早い、マーベルコミック初期からのキャラクターであり、時代の要請や、複数の原作者の信条によって、その描き方が変更されてきた。一時期は作品の中でアメリカ政府による差別的な「赤狩り」に加担した事実もある。その後、この描写にはフォローが加えられたが、このような原作での過去の過ちがあるからこそ、彼はむしろ権力を懐疑する象徴になり得る存在なのである。
アベンジャーズの中心的存在である二人は対立を深め、それぞれの考えに同調したヒーロー達は、とうとう戦うことになる。彼らが一列に並び走り出すところから始まる激突シーンは、サスペンスの緊張を忘れさせるコミック的様式美が楽しい。たっぷり尺を取った彼らの乱戦の模様とその結果は、劇場の大画面で見届けて欲しい。
さて、彼らは果たしてどちらが正しいのだろうか。アイアンマンを含む賛成派は、活動の是非を外部に決定させるという道を選んだ。正義のヒーローであろうと一般市民と同じように一定の法律に従い動くのである。自らを縛ることで人々の要望に対し奉仕する「開かれた正義」だと表現できる。対してキャプテン・アメリカ含む反対派は、あくまで独自の判断で、ときに法律を無視しようとも正義を行うという「閉じられた正義」だといえる。人によって意見は異なるだろうが、どちらの姿勢にもそれなりに感情移入できるのではないだろうか。重要なのは、どちらの派閥にしても「誤った行為をしてしまう」リスクは付きまとうということだ。ただし、反対派がしくじった場合、法に照らせばヒーロー達が犯罪者になりかねないという点は大きな違いだ。
アベンジャーズが分裂することは悲劇だが、考え方を変えれば、それはある意味で健全なことではないだろうか。正義と思っていたものが、じつは悪であったということは、現実世界では珍しいことではない。キャプテン・アメリカらの正義が暴走したら、それを止めることができるのはアイアンマン達である。アイアンマンらが間違った方向に利用されたら、それを正すことができるのはキャプテン・アメリカ達なのである。二つが対立することが、より正しい正義に向かうために必要な試練なのかもしれない。本作『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』は、「正義」の概念を複雑化し、ヒーロー映画を前作よりもさらに現実の世界に近いものとした。マーベル映画は本作によって、真の意味で新しいフェイズに突入したのである。(小野寺系(k.onodera))