『夫のちんぽが入らない』(扶桑社)。今最も注目を集めている「私小説」と言ってもいいでしょう。衝撃的なタイトルがつけられたこの小説は、主婦である作者・こだまさんが同人誌即売会「文学フリマ」に参加し、同人誌『なし水』に寄稿した短篇「夫のちんぽが入らない」(発行当時も大きな話題となりました)を元に扶桑社より出版されたもので、初版3万部から版を重ね、発売から一カ月を待たずに13万部を突破するという異例のヒットを飛ばしています。タイトルの強烈さが話題を呼び、この小説初版特設サイトには「お客様がタイトルを声に出して言わなくても書店さんに注文できる申込書」が用意されているほどです。
「ちんぽ」という単語には、人を惹きつける魔力があります。ちんぽとは、おかしくて時に切実なものです。タイトルに引き寄せられてこの本を手に取る人も多いことでしょう。そして小説の中身もやはり、おかしくて切実です。小説の中には、20年もの間「ちんぽが入らない問題」にじわじわと追い詰められてきた夫婦の生活、周囲の「善良な人びと」からの「普通」の押し付け、心の病に身体の病といった事柄が描かれており、笑ってしまう、いや笑えない、の境界を読者に行き来させます。笑い涙と血が同時に流れるような本なのです。だから決して、タイトルだけで売れている作品ではないのですが、ネット上などに流れる感想を目にしていると、この小説が世間で受け入れられるにあたり、いい意味でも悪い意味でも「夫のちんぽが入らない女性が書いている」という面ばかりに注目が集まっているようにも感じられます。
夫のちんぽが入らない。話題としては非常に吸引力があります。「実は私も入らないんです」「入らないまではいかないにしても、いつも痛くなってセックスするのがつらい」と切実な感想を述べる人もいる一方で、「ちんぽが入らないなんてことが本当にありえるのか」と驚きや疑問の声も、ネット上で多く聞かれました。実は筆者も「入らない」ことで長らく悩んできた身なのですが、そのことを男友達に話して「そんなことってあるんですか!?」と大変驚かれ、むしろちんぽがスルスル入る感覚のほうが信じられないよ!と衝撃を受けた経験があります。「ちんぽが入らない問題」は、非常に物珍しいものとして受け取られているようなのです。
ですから、当事者以外の人びとからすれば「ちんぽが入らない(しかも夫だけ)」という状態は、やはり不思議でたまらないのでしょう。実際「夫のちんぽが入らない」とインターネットの検索窓に打ち込めば、「原因」「病気」「なぜ」といった言葉がサジェストに続きます。AV男優のしみけんさんがTwitterで「膣中隔」という先天性の膣の状態異常(膣の内部が襞でふたつに仕切られ、通常の穴とは別に途中で塞がったニセの穴があり、そちらに入れようとすると入らないのだそう)について解説していたように、あるいは複数の読者から「処女膜強靭症」(生まれつき処女膜が分厚く固い状態になっており、複数回性交を重ねても痛みが生じるというもの)では?という言葉が発せられたように、この「ちんぽが入らない問題」に医学的な原因とその「解決」を望む人の声というものが目立つように思われます。
〈夫のちんぽが入らない女性・「私」=こだま〉ではなく、〈夫のちんぽが入らない「私」を書いた作家・こだま〉
ですが「夫のちんぽが入らない」問題は、小説の中で「解決」されません。何か具体的な対処法が示されるということもない。「私」も夫も相手以外の人間とならば「入る」のに、夫婦でセックスをしようとするとどうしても入らない、その理由さえも分からないままです。
きっと、この問題に対する「まっとうな」答えは「病院に行けばいいのに」なのでしょう。小説のなかでも、「私」は母親から「結婚して何年も経つのに子どもができないのはおかしい。一度病院で診てもらいなさい」という言葉をかけられています。しかしそうした「まっとうさ」こそが「私」を追い詰めるものであるというのは、小説を読めば分かるはずです。さらに、作者のこだまさんと詩人・文月悠光さんとの対談で語られているように、ちんぽが「入らない」ことは〈大人の社会に「入れない」、世間で「これが幸せ」とされる家族の形に「入れない」〉〈級友の輪、生徒の心、妊娠や育児の話……とあらゆる場に「入れない」〉というところに繋がっていきます。つまり、「入らない」という言葉が、小説の中で事実を示す以上の豊かな広がりを持っているのです。小説には、言葉に事実を、そして現実を超える意味を持たせる力があります。もし原因が「膣中隔」や「処女膜強靭症」などと具体的な「現実の言葉」で示されていたら、この小説はまったく別のものになってしまうでしょう。
もちろん、こうしたコメントを通して、自身の性器の異常に気がついたり、向き合おうとしたりする読者は少なからずいると思います。「何だか分からないけど頭がくらくらする」というときに、「風邪ですね」と他者から定義づけされることは人を安心させますし、「解決策」として有効です。しかし作者がブログ内で語っているように、また単行本の帯にも「私小説」と銘打たれているように、『夫のちんぽが入らない』は、「解決できない」ことを描いた「小説」なのです。
おそらく、実話を元にしたこの小説を読むにあたり、「私」と作者のこだまさんを完全に切り離して考えるのは、なかなかに難しいことだと思います。どうしても「夫のちんぽが入らない女性」が書いた体験記、あるいは闘病記のように読めてしまう。その受け取り方を否定するつもりはありません。ですがこの文章が「小説」である以上、「どういう人が書いているのか」あるいは「何が描かれているのか」ということだけではなく、「どのように描かれているのか」ということにも、もっと注目してみてもいいのではないでしょうか。
たとえばこの本が体験記や闘病記であれば、先に挙げた「膣中隔」や「処女膜強靭症」といった「現実の病」が大きな意味を持つでしょう。しかしそれと同時に、『夫のちんぽが入らない』は、こだまというひとりの女性の人生より外には、出ることができなくなります。「入らない」という問題も、具体的な病名以上の意味を持たなくなる。ですが、小説はそれが現実を元にして書かれたものであっても、現実ではありません。現実の枠から脱しうる広がりを持っているからこそ、「入らない」問題はあらゆる輪に「入れない」人びとの物語たりえるのですし、「私」は〈こだま〉個人ではない、あらゆる人間になることができる。だからこそ、この小説を読むときには、作者のことを〈夫のちんぽが入らない女性・「私」=こだま〉ではなく、〈夫のちんぽが入らないこと、そして入らない「私」を書いた作家・こだま〉として見てみるのも、大切なことなのだと思います。
この小説は「試合」ではなく「壁打ち」である
この小説は、とくに劇的な終わり方をするわけではありません。細い糸がすうーっと伸びるようにして閉じられます。夫のちんぽは入らないままだし、「私」の内向きな性格が、すごく前向きなものになるということもない。前を向いて問題と戦うのではなく、誰を負かそうともせず、逃れたり、押し黙ったり、やりすごしたりすることで日々を暮らしている。
子を産み、育てることはきっと素晴らしいことなのでしょう。経験した人たちが口を揃えて言うのだから、たぶんそうに違いありません。でも、私たちは目の前の人がさんざん考え、悩み抜いた末に出した決断を、そう生きようとした決意を、それは違うよなんて軽々しく言いたくはないのです。人に見せていない部分の、育ちや背景全部ひっくるめて、その人の現在があるのだから。それがわかっただけでも、私は生きてきた価値があったと思うのです。そういうことを面と向かって本当は言いたいんです。言いたかったんです。母にも、子育てをしきりに勧めてくるあなたのような人にも。(『夫のちんぽが入らない』)
この小説は、試合ではありません。壁打ちです。作者は周囲の人びととも、読者とも戦わない。ただひとりで黙々と壁打ちをしている姿は、爽快感とは無縁です。傍から見ていると地味で孤独で、痛々しくておかしい。試合終了のホイッスルが高らかに鳴り響くこともありません。壁打ちの終わりは尻すぼみでどこか間抜けです。そんな練習方法を続けていたって上手くならない。人と対話しなきゃ。どうして仲間と一丸になって戦おうとしないんだ。相手に勝ちたくないのか。諦めたらそこで試合終了だよ。――そうした言葉にも、作者は立ち向かいません。ただひとり、血の滲む手足で壁にボールを打ち続けるのです。この小説を身近なものとして、そして救いとして感じる人は、きっと社会の中で、同じように孤独な壁打ちを続けてきた人でしょう。ふっと隣を向くと、なまなましい壁打ちの跡がある。ただそれだけだけど、その痕跡を美しいと思う人。ひとりで壁を打ち続けていたのは自分だけではなかったのだと思う人。そういう人びとのために、『夫のちんぽが入らない』は、「小説」としてこの世に送り出されたのだと思います。
(餅井アンナ)
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